中西智海 / 親鸞教学入門(7)

(6)の続きです。

ねがいと人格

(前略)
 さて、「生きる」ことにかかわる問題を大きく分けると二つの方向が考えられます。一つは生存・生活にかかわるも、いま一つは人間の実存にかかわるものであります。そして人間は普通、生存・生活の問題に埋没し、あけくれてしまいがちなのであります。しかし、人間が単に本能的に生きるとか、適応行動のみで満足するという生きものではなく、ほんとうに生きる、創造行動によって人生をきりひらいて生きることに意味を発見する生きものであってみれば、実存の問題こそ深くほりさげなければならない重要な課題であるといわねばなりません。生存・生活の問題はたしかに表面的で激しく大きいものでありましょう。しかし、そうだからといってそれがそのまま人間のほんとうの問題、根本の課題、究極のことがらであるということにはならないはずであります。まゆげのこげるような激しい問題の根っこに微かではあるが深く底しれない問題、すなわち生と死の問題があることをしらなければなりません。枝や葉はすぐわかりますが根は見えません。しかし、見えるから重大で、見えないからとるにたらないというものではありません。まして見えないから無いのではなく、見えない根こそ、もっともよく知らねばならないところであります。それこそ、「いのちあってのものだね」といわれるようにいのちがあってからの問題、「生」が前提になっている問題――政治・経済・芸術など――の根底に「生と死を貫通」する次元の問題、いのちあってからの問題ではなく、いのちそのものの問題、人生における問題ではなく、人生そのものの問題、外なる問題ではなく、内なる問題こそ、人間の究極の問題であることにめざめなければなりません。この「生・死」の問題、人間それ自体の「しくみ」をごまかさずにみすかすことをぬきにしたユートピアやヒューマニズムは結局、人間楽観主義や単純な人間肯定主義から出るうぬぼれに連なるものといわねばなりません。

本願の原意

(前略)
 実はこの人間の正体をつくつめ、本音をいいあて、人間そのものの問題をあからさまにし、人間のめざめを呼び起こすものこそ「如来の本願」と説かれることがらなのであります。
 「本願」の原語 purva-pranidhana は「前に置く」「約束」「必然性」の意味があるといわれています。
 すなわち、仏教で「本願」はもともと我執(自己中心性)が破斥せられていく限りない実践形態をいうのであります。つまり、衆生(sattva 生きとし生けるもの)は我執(自己中心性)が破斥せられねばならないように前から縁起の理の必然性の上におかれていることを意味し、そのような約束のうちにあることをいいあてられているということになるのであります。このようなあり方を自身の上に発見するとき、縁起の法の光の前におかれた私はいかに我執(自己中心性)から脱却できないものかが明らかになり、そのものにこそ、かけられなければならなかった如来の本願、誓願の強さに深くうなずくという構造を示すのであります。如来の本願の強烈さを「もののにぐるをおわえとるなり」とうけとめられた親鸞聖人こそ、この仏教の原理性とその実存的把握のピークをいいあてておられるといえましょう。

(中略)

親鸞聖人と本願

 経典によれば、如来の本願は十劫という遠い遠い過去において、すでに成就されていると説かれています。すなわち、如来の本願は想像を絶する遠い過去に出来上がっているのであると説かれているのであります。そのようなところから、本願のいわれは、物語であるといううけとめ方があったようであります。しかし、それは「昔々あるところに……」という昔話、またはお伽噺ではないのです。もし、単なる昔の物語やお伽噺であるならば、現にここに体温をもつ私とは「関係ない」ことになってしまい、ためいきをついて生きている現実の私とのかかわりは断たれて一つの子守歌となってしまいましょう。
 さて、親鸞聖人は「本願」をどのようにうけとめられたのでありましょうか。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(『歎異抄』)
 ここでは、「親鸞一人」に脈々とはたらく本願にうなずき、「それほどの業をもちける身」に「たすけんとおぼしめしたちける本願」をひしとうけとめられていることを告げられています。このことばは体温のぬくもりさえ感じさせます。およそ、「昔々あるところに……」などという発想を吹き飛ばして弥陀の眼前に現在した人のみがいえるおどろきが感じられます。それはなぜでしょうか。
 十劫の昔ととかれる如来の本願は単なる時間的過去ではなく、時間を超えているというべきでありましょう。そういう意味では、「どのような過去よりも過去である」ということになりましょう。であればこそ、弥陀の本願は歴史的時間の中にある親鸞聖人を弥陀の眼前に現在せしめ「親鸞一人がためなりけり」という「一人」のための本願成就として成り立つのであります。親鸞聖人には、自らが弥陀の本願という歴史的時間を超えた真実の前に現在することによってほんとうの意味で親鸞一人が誕生することができたというよろこびがありました。すなわち親鸞聖人の信心決定の時と本願成就の時は限りなく距っていながらそれでいて本願成就の「時」と信心決定の「今」とは同時であるというきわめて宗教的実存としてのできごとがはっきりしているといわねばなりません。虚妄の歴史と時の中にくちてゆかねばならない身において、滅びの時ではなくほんとうのめざめの時を成り立たしめたものこそ弥陀の本願でありまして、弥陀の本願とのめぐりあいこそ、ほんとうの親鸞を成り立たしめたできごとであったというのが親鸞聖人の本願のうけとめ方であります。もとより歴史を超えるといわれる本願とのめぐりあいは、歴史の中にたしかに伝えられた真実とのかかわりを無視して成り立つものではありません。それでこそ「遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」と慶ばれたのであります。
(『本願と私』より66~72頁)




つづく



(法話)私たちは仏さまの外に出れるものではないのです。@柏市 西方寺 2011.07.03

7/3、千葉県柏市の西方寺へ聴聞に行ってきました。
以下、松月博宣師から聞かせていただいた内容です。

2011.07.03 西方寺 2011.07.03 西方寺


他力本願とは、「他人のふんどしで相撲をとる」というように、人の力を借りるという風に思われていますが、そうではありません。他人のふんどしで相撲を取るなんて、汚いですよ(笑)

梯實圓という方は、他力のことを「利他力」だと仰ります。「利他」の反対語としては、「自利」という言葉があります。仏教でいう最高のご利益はさとりのことですが、自分がさとりを開くことが「自利」。その反対は人さまをさとらせる働きです。阿弥陀さまが人さまを悟らしめる働き、それが「利他」です。だから親鸞聖人は
他力とは如来の本願力これなり
と仰いました。

他力は今、皆さんに働いておられます。実感していますでしょうか? 皆さん、好きで進んでお寺にくる人でしたか? 進んでお念仏を申す人ですか? どう見ても違いますなぁ(笑)それが、皆さんこうして集っておられる。これは如来さまの力が働いている証拠です。

他力とは、探さなくても良いんです。こうして参らせて下さった働きが他力なんです。

話を聞いて、何かをつかんで仏にになろうとしているとしたら大間違いです。それは親に抱かれて親探ししているようなものです。すでに、お救いの手の中にいるんです。ああ、そうだったんですね、と気づかせて頂くのです。だから「目覚め」と言うのです。

だから、ここにいることを喜びましょうよ。

(休憩)

凡夫を仏にするという阿弥陀さまは、どんな仏さまか。

5月、新聞にこういう投書がありました。「頑張ろう」「頑張って」より、「大丈夫」「心配ない」と言ってほしい、と。震災にあわれた方は、十分頑張っているのです。

『般舟讃』中に、こういうお言葉が、出ています。
仏身円満無背相 十方来人皆対面
阿弥陀さまのお姿には背中の姿がない。だから十方より来る人皆、面に向かっている、ということです。紙をくる~と(筒状に)すると、どこから見ても表、そんな状態です。

2011.07.03 西方寺


この言葉を聞いたとき、祖母が語ってくれたことを思い出しました。祖母はお念仏を大事にする人でした。寺の聴聞から帰ってきて、私を仏壇の前に座らせ、阿弥陀さまの姿を指差し、「阿弥陀さま、後ろになにか担いでいるやろ? あの光背、何のために担いでいるか分かる? あれは、あなたに背中を見せないという仏様の心なんだよ。だから、どんなことがあってもあなたを見捨てないんだよ。お礼を言おうね。なんまんだぶ、なんまんだぶ」。仏像の専門家は、そういうことは言わないでしょうが、私にはそのばあちゃんの話が有難いです。

ばあちゃんとは、そういうことを教えるためにいるんです。「女性」とは、辞書をひくと「子供を産む機能のある性」、そして生物学的には「子供を産む機能を失ったら速やかに亡くなる」とあります。ところが、子供を産む機能を失っても生きているのはゴンドウクジラと人間だけです。そこで生物学者が、なぜ人間とゴンドウクジラだけは生き延びているのか、調べてみたそうです。すると、ゴンドウクジラは生んだ子の生んだ子供の面倒をみるそうです。つまり、ばあちゃんは、孫育てをするために生きている。それが「ばあちゃん仮説」です(笑)

皆さん、仏さまのことをお孫さんに伝えてあげてください。

仏さまは、全ての、生きとし生けるものに向き合って下さいます。背中を見せません。背中を向けるとは相手を見捨てるということです。

人は、誰からも見捨てられたときに、生きる力を失います。その中、ただ一人でもあなたを見捨てませんよ、という人があれば生きて行けます。

良いときは集ってくれるけど、都合が悪くなると離れてしまうのが人の世の常です。私がどの様な有様、人格で生きようとも、あなたを見捨てないぞ、という人を私たちは求めているはずです。

それが阿弥陀さまです。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀と名付けたてまつる
これを親鸞聖人は「ひとたびとりて永く捨てぬなり 逃ぐる者を追わへとるなり」と読まれました。
「ひとたびとりて永く捨てぬなり」「阿弥陀」とは、「ア・ミター」というのが源語です。英語では、an(無理)meter(量)です(無量)。我々は時間の制約の中で生きています。それを寿命と言います。その、寿命に限界のあるものを包み込むのが寿命無量、現代の言葉でいうと永遠の仏ということです。
「逃ぐる者をおわえとるなり」。逃げて行く者までも追っかけて捨てない。これは空間の広がりを表します。「アミター・バー」これを「無量光」と訳しました。永遠に対し、無限を表します。
阿弥陀さまとは、永遠で無限の仏さまです。

孫悟空がお釈迦さまの手の中にいる話を思い出して下さい。私たちは仏さまの外に出れるものではないのです。

その仏さまが「南無」して下さるのです。「まかせなさい」ではなく「まかせます」です。「南無阿弥陀仏」とは、そのまま救う、という仏さまのお力が働いているのです。
これが親鸞聖人の味わいです。


最後に私の味わいを述べさせていただきます。
昼、うなぎを食べました。うなぎを摂取したんです。そうしたら、
うなぎを摂取することにより、うなぎが私になるのです。牛を食べたら牛が私になるんです。鶏を食べたら鶏が私になります。豚を食べたら、、、それは食べ過ぎですが(笑)、うなぎを食べたらうなぎか私になるのです。

他人事というのが一切なくなる世界です。阿弥陀さまが私を他人事と思われない世界に包まれた世界が摂取不取です。

お東の曽我量深という方はこう言われました。
如来は我なり。されど、我は如来に非ず。如来、我となりて我を救い給う
如来が私を食って下さって、私を仏にして下さる。それが摂取不取ということです。

本当に寄り添うことのできるのが阿弥陀さまです。
被災地で、次のスタート地に立てないで涙を流している人、また、そういう人を忘れてしまう私にも、寄り添うてくださるのが阿弥陀さまです。

人間には限界がありますが、それを知りつつ、如来さまに共々寄り添うて下さる私たちと、できる限りのことをさせていただくのが復興支援になるのだと思います。

それを忘れると上から目線となってしまうのです。






西原祐治 / 脱常識のすすめ (3)

二つ前の投稿の続きです。
本当に豊かな世界とは、すべてが完ぺきで、都合の良い、マイナスのない世界ではなくて、弱さや不完全さをつつみ、不完全のままに調和のとれた世界である(中略)
 自分の愚かさが明らかになり、その愚かな私を受け入れていく人生観が与えられる。これが信仰の恵みなのでしょう。
人生万端、今が目的の中であり、今が報酬であることに開かれて生きる。すなわち感謝の生活ということです。
 「ありがとう」(今あること有り難し)という言葉の中に込められている豊かな心を、理屈や言葉でなく、日常生活の実践の中で、次の世代に伝えたいものです。
 私たちは科学と生活様式が発展することが、そのまま幸福への道だと思い違いをしているのではないでしょうか。戦争、公害、原子力、人類は科学技術が作り出した危機の中に生活しています。科学技術が悪いとは思いません。その科学技術の発達によって育まれる、人間の知性への驕りや過信、私はそこに危険さを感じます。
 人間の知性は信頼できない。釈尊は、私とは迷いの存在だと説かれました。そのことを熟慮して科学技術と接することが大切です。
経験の「経」は縦糸という意味ですが、経験とは長さではなくて、深さだという思いに至ります。宗教的経験とは、生死を貫く深さを持ち、人間の苦しみや悲しみを浄化してくれるものだと思っています。
 地獄。それは深い地の底にあると示されています。地の底という言葉から、光のない、幽閉された世界をイメージします。それは、希望のない、欲と怒りと愚かさでがんじ絡めになっている私の姿を描写しているようにも思われます。
 それに反し、仏の世界は光でイメージされます。仏さまに出遭うとは、光に出遭うことです。
(中略)
 私の本当の姿が明らかになる。そこに光の仏さまとの出遭いがあります。
 今日は親の命日だからと、お寺に行ってご法話を聞く。それをお供えとさせて頂く。あるいは今日一日、腹を立てない。それをお供えとする。仏さまは、私が少しでも豊かになることを喜びとする方です。だから金銭もよいが、そうした心や行いをお供えする。まさに志です。
 仏さまへのお供え。それはそのまま仏さまから私へのご利益でもあります。
 浄土真宗では、死は忌むべきものとしません。阿弥陀如来の慈しみに目覚めた者。その人の死は、私という小さな我執から離れ、阿弥陀如来の慈しみに同化する時です。慈しみにすべての人が摂取される。それを倶会一処と言います。(中略)
 人は悲しみに出会っている時の方が、より真実が見えます。
 子どもの頃の私には、常に親の慈しみがありました。今、大人である私の背後にも、この私をかけがえのない存在であると見護って下さる仏さまの存在があります。その仏さまの慈眼の中にる私を思う。それは大きないのちの中にある私の発見でもあります。
阿弥陀如来の無条件の救いに帰依する。それは、無条件でなければ救われないような闇を持っている。それが私の真実の姿であることを受け入れることでもあります。
尊い心、大切にしたい心、未来に伝えたい心とは何か。仏像はそうした豊かな心を姿・形で表現しているのです。お寺の宝物といえば、その姿・形を通して表現しようとしている心が、大切な大切な宝物なのです。
 私は人間の可能性には二つの方向があると思っています。
 一つは自己拡大です。一より二、二より三と拡大していきます。スポーツや学問、社会的地位などはこれです。意識の上でいえば、自己主張であり、はつらつとした私らしさの発揮です。
 もう一面は、逆に、自分を小さくしていく方向です。自己主張をせず、自分を限りなくゼロに近づけていく。書道や華道などの道の文化が目指しているものです。意識の上でいえば、謙虚さであり、つつましさの実践です。
 仏教は主として後者を説いています。空や無我など自分を「ゼロ」にしようとする教えです。
(中略)
 私たちがあたりまえに過している一日に対して、ジャンボ宝くじに当ったような感動をもつことができる。これが心の可能性です。またゼロの視点により開かれていく世界です。
 私の帰依する浄土真宗という仏教は「他力本願」の宗旨です。他力とは、阿弥陀如来のことであり、阿弥陀如来の願いに目覚めて生きる教えです。阿弥陀如来の願いに目覚めるとは、大いなるいのちの中にある私の発見でもあります。
 そうした宗教的なレベルでなくとも、他なるものから願われて今の私があることは事実です。(中略)
 感謝は大きな願いの中にある私の自覚でもあります。将来への願い、今への感謝。共に、願いとの出合いであり、この願いを象徴したのが仏さまなのです。
Wさんは、六十歳になる目のご不自由な方です。宴席の間、色々な話を聞かせていただいたのですが、私はWさんに「目が見えたら何が見たいですか」と尋ねてみました。するとWさんは「人に親切をしてあげたい」と言われます。その意外な答えの内容は、目が見えないと、色々な人から親切を受ける。その時、親切をされた嬉しさから、自分も目が見えたら、人に同じ様な親切をしてあげたいと思うのだそうです。そんな日頃の思いがあり、目が見えたら人に親切をしてあげたいという言葉となったようです。
 私は、その時、私には見えている紅葉や景色や物などの目に映るものを予想していたのですが、Wさんには、形が見えないかわりに、目の見える私以上に、人の心や優しさが見えていたのです。眼が見えない人には眼が見えないなりに見えている世界があるということです。
 その時気づかされたことですが、私の問い自体が、私見える人、彼見えない人といったように、人を色づけして見ていたということです。
 人を評価することなく受け入れるには、まず自分は人を色づけして見ていることに気付くことから始まります。
 大地のような人、それは人を評価することなく見ていける人のことです。私はそうして人が育つ場がお寺だと思っています。
以前、ご主人ががんで六年間闘病生活を送っている奥さんにお会いしたことがあります。「六年の間に何か学んだことはありますか」と尋ねました。するとその方は、テーブルの上にあった少し水の入ったコップを指でさされました。そして「少しきざな言い方ですが、以前の私は、すべてがこのコップにこれしか入っていないという見方でした。しかし今は、これだけ入っていると見られるようになりました」と言われました。
 おそらく、六年間の闘病、ご主人の回復が見込めない状況、将来への不安など、自分を取りまくマイナスの状況の中で、以前だったらマイナスのことしか目に入らなかったことでしょう。
 しかし六年間の体験の中で、色々な友達に助けられたこと、またそんな友達を持っていること、ご主人と出会えたこと等々、苦しい状況の中にあって、なお輝きを失うことのない恵まれていることにも、まなざしが届くようになったことを、コップの水にたとえて言われたのでありましょう。コップにこれだけは入っているといわれるまなざしは、人と比べるという客観的なものではなく、「思える」という主観的なできごとです。
 私は、主観がすべてだとはいいませんが、この「思える」という主観的な世界をもっと意識的に大切にしていく必要があると思っています。








Filed under: ★仏教  タグ: , , , , , , , , , , , , , , , ,   charlie432 02:08  Comments (0)
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