(法話)生きることと、死ぬ彼方にも光を与えてくれるような言葉が「往生」です。 @八王子 大恩寺 2011.07.10

7/10、八王子の大恩寺へ聴聞に行ってきました。ご講師は天岸浄圓先生です。

以下、その時の内容。

大恩寺


 故法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしこと確に承り候ひし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるを御覧じては「往生必定すべし」とて笑ませたまひしを見まゐらせ候ひき、文沙汰してさがさしき人の参りたるをば「往生はいかがあらんずらん」と確かに承りき、今にいたるまで思ひあはせられ候ふなり。
初盆を迎え、亡くなられた方を偲ぶご縁に恵まれましてお話させていただきます。

「ご縁」というのは英語に翻訳しにくい言葉だそうです。「原因」という言葉は説明できても、「ご縁」は訳せないと聞きます。皆さんも「ご縁」を現代語訳できますか?「この度は不思議なご縁で」と言いますでしょ?「ご縁」という言葉は色々なところで使われますが、「一言二言では説明できないけど、色々なこと、条件が重なり合い、今の状態に至りました」ということでしょう。何か一つだけを原因として確定するのではなく、今日の日があるのは言葉で尽くすことの出来ない色々なつながりがあった、説明しきれませんがそのお陰でこういう出会いが出来た、という幅の広い、心が豊かでないと感じ取れない言葉です。

仏教というのは面白い宗教で、人間の持っている受け止め方のカラクリをハッキリさせるということがあります。話をしているのは私一人、しかも一つの話しか出来ません。しかし、これをお聞きくださる皆さんは、70人いたら70通りに聞かれるのです。皆同じ事を聞いているのですが、意識を通して聞いているのですから、「長いな~」と感じられる方もおられれば感じられない方もおられます。しかし、自分の感じ方しか分かりませんから、他人も「長いな~」と感じているのだろうな~と感じているのです。10人おれば10通りの聞き方をし、そして自分の聞き方が正しいと錯覚に陥るということを私たちはやっているのです。私の聞いている話と隣の人が聞いている話は同じ話なのですが、感想なると全く違うようになるのです。時として、私の言ったことのないことまで「確かにそう聞いた」と言われる方もあります(笑)。

今お話のことを言いましたが、見ているものも書いているものも、味わっているものも、さわっているものも、受け止めているもの全体が、そういうかたちの中で私たちはで見たり聞いたり、香りを嗅ぎ、味わい、接し、意識をして生活しているのです。

だから、いっぺんに物事が変わることがあります。例えば「この人は好きだ」という人がいるとします。なぜかというとこの人は私に優しいから。私にとって良い人だから。ところが、何かの機会でその人が私の胸にグサッとくることを言って私が聞いてしまった。その方が本当に良い方であるとすれば、私がその言葉を聞いたとしてもこの方は良い方のはずです。ところが、聞いた途端に嫌いになってしまいますね。では、それまで好きだった人はどこに行ってしまったのでしょう。そしてまた「ごめんね、言いすぎました。許してね」と言われたら、また好きになる。

このように、私が感じたものが、感じたままに、そこにいるように私たちは錯覚するのです。

仏教は、物の受け止め方を極めて大切にする教えです。

私にとって都合の良い人は良い人、私にとって都合の悪いは悪い人。その人が良い人か悪い人かを判断するのは私です。そして、意識の中では私は正しく判断する者、出来る者、となっています。

そのことを、お経の言葉でお話したいと思います。

最初に讃題を言いましたが、それは親鸞聖人の書かれたお手紙の中の一節です。
 故法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしこと確に承り候ひし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるを御覧じては「往生必定すべし」とて笑ませたまひしを見まゐらせ候ひき、文沙汰してさがさしき人の参りたるをば「往生はいかがあらんずらん」と確かに承りき、今にいたるまで思ひあはせられ候ふなり。
難しいですね。これは、言葉遣いが難しいというのもありますが、仏教というのは本来常識に合わないようなことを言われているので、その意味でも分かりにくくなっています。

先ほどお勤めされたときに、「法名・釈○○、俗名・○○」と聞かれたと思います。「釈」とは、お釈迦様の教えを聞く、お釈迦様の一族になりました、ということです。いうなれば苗字のようなものです。お釈迦様一族。血のつながりではなく教えのつながりで。だから法名は本来、亡くなられた方だけに付けるのではなく、生きておられる方にもお付けします。
「おかみそり」。毎日、京都の本願寺ではおかみそりという仏事が行われているのですが、「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」といってカミソリをあてられます。「私は仏さまを拠りどころとしてこの人生を生きます。私は仏の教えを拠りどころとして物事の判断をしてゆこうと努めます。私は信者の一人として教えに泥を塗らないように責任感を持ってこの一生を生きてゆきます」というお約束の言葉が「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」です。
ここには「私を拠りどころにします」という言葉がありません。今まで自分を拠りどころにしていた生活と決別します、という意味でカミソリが当たるのです。お坊さんになる真似事としてしているのではありません。もちろん、「私はそういう生き方をしている者です」ということをハッキリさせるためにお坊さんは頭を剃るのですが。そして特別な袈裟を着ます。
袈裟には筋が入っています。それは、小さな使わなくなった生地をパッチワークして縫われているからです。だから一銭も使われません。本来袈裟はお金のかからないものです。きらびやかなイメージをもたれているかもしれませんが、袈裟は本来そういうものです。雑巾の大きいバージョンだと思われたら良いです。
この袈裟を着ることによって、「私は仏と、教えと、信者としての責任を持って生きてゆきます」ということを人々に、姿の上でアピールしているのです。それが、お坊さんの頭を剃った姿なのです。私たちは頭を剃る必要はありませんが、このことを心に思い定めるために、カミソリが当たるのです。

そして私を中心にした考え方、、、先ほど話しました判断力、それが自分中心であるということをしっかり理解するのです。自分中心とした判断力を止めなさい、といっているのではありません。止めたら大変なことです。理解している、ということです。それぞれがそれぞれの経験で、自分を中心に、自分の経験を基にして判断してゆくのは極めて誤りが多くあることを自覚するということです。そして、正しい物事の判断の拠りどころは仏さまとその教えである、と努力する人を仏教徒といいまして、お釈迦様の一族ですから「釈」という法名が付けられるのです。

俗名とは、単に生きていたときの名前というのではありません。戸籍上の名前ということです。生きているときの名前が俗名で、死んだ後の名前が法名、というのでではありません。死んだ後でも、個・○○さん、と言うじゃないですか。俗名は法律上の名前なのです。法名は生きても死んでも法名、俗名は生きても死んでも俗名です。




そしてもう一つ。「○月○日に往生されました」というご案内がありましたね。皆さん、往生という意味、分かっておられますか?関西ではよく使います。「立ち往生」とか「えらい往生したんや。かなわんかったで」と。大木こだま・ひびきという漫才芸人は「こんなん連れて漫才してます。往生しまっせ」と言って漫才していました。

今は死んだときや困ったときに「往生した」と使われますが、往生とは「生まれて往く」です。

そう受け止められますか?なんで?
亡くなられたんでしょ?なのになんで「生まれて往く」と言われるのですか?
亡くなられた方を「生まれて往く」と思えますか?


思えないのです。
生まれてきたら、おしまいは死ぬのです。だから「亡くなった」と聞いたら、「えええ!亡くなったんですか!?」とびっくりはしますが「あぁ、そうだったんですか。生まれてきたんですから、いずれはそうですよね」と受け入れますね。
もし「生まれさせていただきました」と訃報の連絡したらどうなりますか?「えええ!?生まれた?」とびっくりされます。

この「往生」という言葉は重要な意味を持っているのです。ただし、私たちの日常の意識では理解できない、納得できないことだと思います。

だから親鸞さまはこう言われるのです。「私は若い頃、先生である法然上人からこんなことを聞いたことがあります。浄土ということを『はぁ~そういう風に聞くべきなんだな』と理解しようとするなら、謎を解こうとするなら、愚者になりて往生するということを聞きました。それと、難しい言葉は何も理解できないけれども素直に念仏する人を見て法然さまは、『あの方達、間違いなく仏様のところへ生まれて往きますよ』とニコッと微笑んでいらっしゃいました。また逆に、色々なことを知っていて、勉強も出来て、難しいことを言う人がやってきたら、陰の方で『あれ、大丈夫かね』と心配そうに見てらっしゃいました。50年経った今もまた、昨日のことのように思い出されます。」先ほど読んだ文章はこういうことです。

「愚者になりなさい」というと、失礼なことを言ったように思われるかもしれませんが、法然上人が言われたことです。大事なことです。愚者とは、通知表の点が悪いことではありません。漢字を知らない、英語を知らないことではありません。

愚者の反対は賢者。

賢者と愚者の違いは、判断力が正しいか正しくないか、です。「愚者になりて」とは、自分の判断力が正しいと錯覚してはダメですよ、ということです。初めに、「皆さんの判断力は皆さんの経験によってご自分だけが考えている判断力ですよ」と言いました。私の判断力で何でも分かろうとする思いは、ある意味では傲慢というのです。思い上がりというのです。

なぜ仏さまに手を合わせるのですか。単純に考えて、私よりも仏さまの方が立派だからです。そうじゃないですか?「仏さまとは何か」という話は別の機会に譲るとして、少なくとも常識として、世間一般的な考え方としても、仏さまの法が私よりも思いがけなく尊く立派で素晴らしい方であるから、手を合わせるんでしょ?

私たちが「亡くなられた」ということを、仏さまは「生まれて往く」と仰いました。起こっていることは同じです。要するに、呼吸が止まって心臓活動が止まって、脳の活動が停止してしまった。それを私たちは「死んだ」、仏さまは「生まれて往く」と言っている。私たちは「生まれたら死ぬ」と思っています。
これは人間がつけた名前(言葉)なのです。人間の常識からすれば「生まれたら死ぬ」といったら驚きはするけど驚かない。しかし仏さまの常識からしたら「生まれた者は生まれて往く」のです。

何処へ?
浄土へです。仏となって。

そう言うと常識に合いませんから、大阪弁で言うと「生まれたらが生まれて往く?そんなアホなことがあってたまるかい?」というのがだいたいの受け止め方です。それは何故かというと、「生まれ者は死ぬ」というのが私の正しい判断ですから。だから私は賢い方になっているのです。

そして「生まれたら生まれて往く」という私の判断力に合わないことを言う仏さまは愚かな者。「誰や?そんなアホなこというてるのは?」

この判断のひっくり返り。仏さまに手を合わせている者が、仏さまに「馬鹿なことを」とは言えません。そうなると、私の考えていることが正しくないことであって、仏さまが言われることが実は正しいことである、と聞くことができるような心の転換を親鸞という人は私たちに語りかけているのです。

皆さんがお別れになったと称している方は、仏さまからは、生まれて往かれた方なのです。だからお寺では「往生なさった」と言うのです。

そして「生まれて往く」ということは新たな誕生。仕事があるんですよ。その覚悟で生きていきなはれ。『正信偈』には、まさに往生すべき方が往生されたらどうなるか、書かれてあります。
遊煩悩林現神通 入生死園示応化
これがお仕事です。林のように多くの人々が、それぞれに煩いを持ち、それぞれに悩みを抱えて生きています。その林のような悩みや煩いや痛みの中に遊び入る。これから皆さん、遊ぶんですよ。遊びの特権は子供。子供はおもちゃを沢山出して遊びます。ところが大人になると遊べなくなります。大人になると「片付けて欲しいものだけ出して遊びなさい」と訳分からんこと言いますね。それは遊びではありません。遊びはい~っぱい並んでいる中で遊べるのです。そして朝から晩まで遊んでも疲れません。子供は「疲れた」と言いません。「疲れた」と言ったらもう子供じゃないです。遊びは疲れません。効率をいわないから。これだけのことをしたらこれだけもらえるな、と考え出したら仕事になります。そして疲れるのです。
疲れを知らない子供のように、人々の悲しみや悩みや煩いや痛みの中に入って、煩いを取り除き、悩みを共にし、悲しみを共にし、その人々を本当の幸せに導いてゆくように、不思議な力を持って、その方々と共に生き、その人を支え、その人を守ってゆくように、あらゆる人の上に生きて往くことを往生と呼ぶのだそうです。

これが、私たちが「死んだ」と言っていることの実態です。「死んだ」なんて言うから先が無いのです。「死」という言葉はそういうことです。そこから先はもう無い、と。だから最近のお年寄りは遊ぶことばかり考えているのです。「今のうちに行っとかなきゃ」「今のうちにやっとかなきゃ」。先がないと思っているからです。大丈夫。これから先、いやと言うほど遊べますから。なぜならお金に換算しないから。言い換えれば礼を言われない。遊んで礼は言われないでしょ。

自分の意識であらゆる人々の幸せを実現できるように、命一杯、無限に生き続けて往くことを「仏さまとなって往生する」というのです。そうなったら、死ぬことはつまらんことではなくなってきます。悲しいことであり、辛いことではあります。別れが。しかし、死に別れることが単につまらんことでもなければ、単に悲しいことでもなくなります。やがて私を導き、あらゆる人々を支えてくださる。そういう方を仏さまというのです。皆さんはまだ違いますよ、自分の幸せしか考えていませんから。その、自分の幸せしか考えられないことが恥ずかしいこととなって、あらゆる人の幸せを実現してゆくことを自らの幸せとするような転換期。それが往生という言葉なのです。

今日お帰りになられ、お位牌をお仏壇にお納めになられるかと思いますが、改めて「往生なさいましたね」と仰ってください。「私だけでなしに、あらゆる人々の痛み、悲しみを支えるようなお方におなりになられましたね」と申し上げて差し上げてください。そうすると「おー、よう分かってくれたな」と声が心に返ってくるかもしれませんよ。

単に悲しみだけでなく、単に辛いだけではない。生きることと、死ぬ彼方にも光を与えてくれるような言葉が「往生」です。それは、私の考え方だけにこだわらず、仏さまの言葉に素直に耳を傾けて、仏さまの言葉を真実と受け入れると、そういう心の地平が初めて開かれるのですよ、と親鸞聖人は私たちに言い残していらっしゃるのです。





西原祐治 / 脱常識のすすめ (2)

一つ前の投稿の続きです。
 人は欲望に励まされて生きているのですからお金に対する執着は当然です。しかしこの欲望には節度が必要です。欲望に節度の調和をもたらしてくれるのが文化であり、その究極が宗教です。おおかたの宗教は「感謝」と「懺悔」を大切にします。私たちの国では「ありがとう」と「恥ずかしい」という言葉で相続してきました。ところが現代はこの「恥ずかしい」という思いや感情が希薄です。
 がん患者のHさんから「安心して病気がしたい」と何度か聞いたことがあります。「かわいそうに」「お気の毒に」といった自分を取り巻く環境が、自分を憂うつにしたといいます。
 病気を患っても自分は自分だし、今という時は、二度繰り返すことはない。そんな自分が他人と比較され、劣った人であるかのように見られることがたまらなかったのでしょう。
 物や人に点数を付けない。すべての存在は、宇宙で唯一のものであり、永遠に繰り返すことはない。そういう視点を持って、日常生活を送りたいものです。
老人、病人、障害者、挫折したひとなど、評価ではなく、その人をありのままに受け入れる価値観が希薄です。
(中略)
 その救済活動は、救済活動の対象者を「他者に代わって時代の苦悩を背負っている文殊菩薩の化身」であるという人間理解から展開されたと聞きます。救済する者ももされる者も互いを尊重い合う。共に一つの豊かな理想に向かって歩むという営みです。
 人は失ったとき初めて本当のことが見えてきます。別れは、新しいものとの出合いの時でもあるのです。
 「葬式仏教」といわれ久しい時が経ちます。この言葉は、葬式という儀式にだけ終始している僧侶への批判から生まれた言葉でしょう。
 だからといって、私は、仏教者がもっと死より生に関わるべきだとは思いません。逆に、もっと死に関わるべきだと思っています。死の宣告を受けた人への関わり。死別の悲しみへの対応。自殺や死に関する相談や学習。お葬式も、別れの儀式の会場として、老病死を見つめる場として、仏様との出遭いの場として、まだまだ工夫の余地があります。
 人はめったにない恵みに出合った時、幸せを感じます。逆に、自分がめったにないほどの逆境にある時、ごく当たり前のことに感動します。めったにないことを追い求めるか、当たり前のことに感動できる自分を求めるか。日本は、めったにない新しいことばかりを追い求め過ぎてきたようです。
(中略)
本当のものは、追い求めるものではなく、静かに合掌する中に見えてくるものなのでしょう。
老人を大切にする。それは私の心を大切にすることです。優しさや慈しみは、弱い存在によって呼び起こされます。弱い、壊れそうな、小さな存在によって、優しさやいたわりの心が生まれていきます。また人に優しい社会も、社会的な弱者によって形作られていくのです。
 老人には痴呆症の人もいます。痴呆は決して不幸なことではありません。本当の不幸は、痴呆者を受け入れることのできない社会であり、人の心なのです。
 そして大切なことは、慈しみの心は、他人ばかりでなく、ありのままの自分を受け入れていく心なのです。老人によって慈しみの心が育てられ、その慈しみによって自分が救われていく。
 お年寄りを愛すること。それは私を愛することなのです。社会的な弱者は弱者のままで、大切な役割を持っているのです。
大切なものとは、「おかげさまで」という自分以外のものに対する感謝の心であり、自分を主張しないことに美徳を感じる精神風土です。
 自己主張をしないことに美徳を感じる。この日本的な強要は、決して消極的な生き方ではありません。むしろ万物の中に自分を見いだし、自分の中に万物を感じていくダイナミックな生き方です。
 死別という人生の岐路に遭遇し、生活は一変します。しかし生き方も一変する人は案外少ないようです。
 Aさんは生き方が変わったお一人です。六歳の愛児との死別。両親の目前での交通事故。
(中略)
 生き方が変わり、人生観が一変したといいます。ある日、「あの子は、何が大切かを教えに来てくれた仏様かもしれません」と言われました。その死を無駄にしない。それが亡き人への最高の思いやりです。
 私がこの世から息が切れる。その最後の一息まで、ご一緒してくださっている仏様。その仏様を実感し味わっていける人は最高の友を得た人だとお経にあります。
 相手の痛みを自分の痛みとして感じる。そうした感性は、仲間意識や同胞感の上に成立します。
(中略)
 仏教は個人のものです。しかし個人の利益を越えた、宇宙的な広がりのある意識を問題としています。我他彼此という閉ざされた枠組みを越えて、相手の痛みを自分の痛みとして感じる。これが仏さまの境地です。仏さまを大切にするとは、宇宙的に広がる仲間意識を大切にすることでもあるからです。
仏の愛は、自分と他人との区別を持ちません。求め合う必要がないのです。常に私の闇を照らす光として、私とともに歩み続けてくださいます。
 毎月、築地本願寺を会場として「がん患者・家族語らいの集い」を開催しています。この集いは、病気を治すこと、病気に打ち勝つことを目的とした集いではありません。治ること、打ち勝つことを目的とした会ばかりなら、死に直面し、死を死を受容した人の行く場がありません。病人や死は命の姿です。その命の姿を偽ることなく見つめ、その中で安らぎ、語らい、出会っていこうとする集いです。
 仏教では迷いの根本が分別にあると説きます。「分」も「別」もわけるということです。比較対照して優劣をつける思考パターンのことです。
子どもの純粋さは経験というフィルターを通さないことから来る新鮮さなのでしょう。「いのち毎日あたらしい」。当たり前のことですが、大切なことです。




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西原祐治 / 脱常識のすすめ (1)

西原祐治 / 脱常識のすすめ
7月3日、千葉県柏市の西方寺に参詣した時に記念で頂きました。産経新聞の連載コラム『宗教・こころ』「語る」に掲載されたものです。

日常のありふれた話題を、浄土真宗の精神から見つめ、読みやすくまとめられています。
老・病・死、苦しい、悩ましい、辛い、悲しい、劣っている、、、などのネガティヴな事象を拒絶・否定するのではなく、ありのままに受け入れる姿勢が真の幸福につながることがよく分かると思います。

共感、納得するところが多いので、何回かに分けて引用します。

 過日、ジャータカという仏教説話集を読みました。動物たちの自己犠牲によって他を救う慈しみの行為が幾篇ともなく登場します。本を読みながら、ふと慈しみこそ仏の正体であるという思いを持ちました。仏は過去、無数にこの世に出現したとお経にあります。慈しみこそ仏さまの正体だとすると容易に頷けます。
 子どもの頃の体験は、どんな体験であっても貴重な体験です。その体験に関心を寄せてくれる人がいる。それが重要です。これは子どもだけの話にとどまりません。
 先月(2000年12月)、教育改革国民会議の最終報告が発表されました。気になった部分は奉仕活動です。いわく「思いやりのある心を育てるためにも奉仕活動をすすめること」。これはくせ者です。奉仕活動を否定はしません。しかし思いやりは自発的な感情です。その思いやりを強制される。また奉仕活動はそれだけで善人顔をしています。だから奉仕活動イコール善いこととなりがちです。個人の思いを離れて、政治が善いことを決めていく。その善いことが、受験合否の参考になるとなればこれは最悪です。まずはボランティア精神を育み、自発的に行動できる環境を整えることが先決です。
 敗北と混乱。私たちはこれを歓迎しません。無価値と退けてしまいます。しかし敗北と混乱は、ハイレベルな秩序や価値観、思想を生み出す重要な役割を担っています。
何かを失ったとき、失って初めて見えてくるものと、しっかり出会っていけることの大切さを思います。まさに、明かりを消したとき、明かりのために見えなかったものが手に入る時なのです。
経験と知性。これが現代人の足跡の幅です。経験より可能性への信頼が、知性より感性がより重要です。
 その時その時の今を大切にする。仏教もこれに尽きます。「自分の都合のよい今を生きる」。これが私の知恵です。「都合の悪い今も……」。これが仏さまの教えです。
頭の下がる大いなる存在の前にぬかずく。そこは自分自身との対話の場所でもあります。お仏壇は、大いなるいのちとの対話の場所です。その仏壇が死者供養だけの道具になっている。
 社会人は、宗教に対する正しい知識を持っている。お坊さんの日課表には、宗教者ならではの社会奉仕が書き込まれている。そんな社会が望まれます。
人生を二倍、三倍に楽しむコツは、嬉しいことがあったら独り占めしないことです。
仏壇は、老病死を見つめてきました。それは単に、人間を否定的に見てきたのではありません。労病死をありのままに受容できる心の可能性を大切にしてきたのです。
時代は確かに、「物によって心を満たす」ことから「物によって心が振り回されない」へとシフトしています。その次にくるのは「満たされた心によって物を扱う」ことではないでしょうか。
 文化や宗教といった一つ・全体という概念を学ぶことが大切です。
 私といういのちの系譜の学び。私がどのようにしてここに誕生したのか。個を超えた大きないのちの中にある私の発見。そうした人間理解を養うことです。
 日本には、全体の中に個を埋没させてしまった歴史があります。私を埋没させるのではなく、私を発見することです。
 浄土真宗でいう「南無阿弥陀仏」の念仏は呪文ではありません。無条件に私を救ってくださる永遠のいのちの自己表現です。無条件に私を救うとは、無条件でなければ救われないような闇を持っている。それが私だという阿弥陀仏の人間理解です。その私を、無条件の慈しみで満たすという仏の名のりが念仏なのです。私が「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える。それは念仏になって躍動してくださっている阿弥陀如来の慈しみに触れるときです。
 宗教には色々なメリットがあります。その一つが、自分を絶対視せず、客観的に見つめる場が与えられることです。もとより自分の欲望を達成するために神仏を利用する宗教は別ですが。
苦しみや悲しみ、楽しい嬉しい、そのすべてがかけがえのない人生なのです。その時その時を大切にできる。そんなまじめさに魅力を感じます。
 自分で自分を見るという状況があります。少し成長すると、他人から見られている自分を意識します。他人が見ていなくても自分の行為に恥じらいを感じる。これは天から見られている自分を意識できる人かもしれません。仏様のまなざしの中にある自分を意識できる。これは、仏様から見られている自分に意識が開かれている人です。
 逆境にあって、その時の自分をどのレベルで意識できるか。ここに人としての可能性があります。また逆境は新たなる意識との出合いの場でもあります。
 どんな死にざまであっても、死ぬときは死ねるように死なせて頂くしかありません。どつ転んでも阿弥陀如来の慈しみの手の中のことなのですから。
(中略)
 私は死を敗北だと考えません。死は自然のことです。そして私の死が、どんな終わり方であっても、それなりに意味のあることだと思っています。家族や縁ある人に、命には限りがあるという仏様の教えをわが身の実践で示すのですから。死はそれだけで残された人への大きな贈り物なのです。
 死にざまは、死んで逝くのではなく、死んで往けることが大切なのでしょう。
死はあいも変わらず老若男女富貴賢愚を問わずすべての人に平等に訪ずれてくれています。高額医療・臓器移植など死が平等でなくなりつつある現状もありますが。
 浜ちゃんは、釣りバカで万年ヒラの×(ペケ)サラリーマンです。その浜ちゃんいわく「君を幸せにする自信はないが、ぼくが幸せになる自信はあります」。うまいことを言います。確かに、妻を幸せにしたという思いも事実もありませんが、私が幸せになったという思いはあります。
 若者の心は、死んだら終わりというドライな感情ではありません。人の生と死を超えて、生き続ける願や愛、想いといった情念を大切にしています。死んだら終わりというドライな感情は、むしろ大人たちの抱く心のようです。
 お経の中には、非常識な表現が多くあります。私は表現が非常識であればあるほど、大切に頂くようにしています。お経は、常識に縛られている私を自由な世界に解放することを役割として担っているからです。
経験の及ばない「死」からは何も連想できない。現代人は、非常に貧しい死の文化を作り上げてしまったようです。
(中略)
私は、死後について自分はすごく自由な世界にいることを感じました。
 たとえばお経を読んでいたとき、ふと「この命終わって仏様になったら、過去に生まれて直接このお経を釈尊の口から聞いてみよう」と思い楽しむことがあります。
 そんなことができるのかできないか。それを経験のレベルで実証する必要はありません。すべては仏様に任せて、私の縁に従って自由に連想します。死後は、限りのないいのちに摂取されるときとして、今を潤わせてくれます。
 人生の終着駅。それを私の命という固執から解放されるときとして連想できる。ここに一つの恵みがあります。
二つの提言です。まず、西洋文化の常識では、人間は生物や物質に比べて特別な存在であるとしてきました。それが人類のおごりを生み出しました。これに近代以後の日本人も同調してきたのです。遺伝物質が明らかにしてくれたように、人はもっと他の生物や無生物に対して謙虚になるべきです。
 それと命の尊さです。遺伝子物質という客観的な事実の上では、犬も虫も同じ命の値打ちです。ではどこで私の命の尊さを押さえるのか。私たちは命の尊さを「~だから」「~だから」と、客観的のものへ求めすぎてきました。もっと「尊いと思える」ことを大切にすべきです。尊いと思えるか、思えないか。同じ命でも、ここに雲泥の差があります。人間教育とはその思いを育てることです。
浄土真宗の念仏は、念仏として私に届けられている阿弥陀如来の慈しみに触れる営みです。








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