【法話】阿弥陀様の一方的なお働きですので、私たちの構うことではないのです。 2012.01.14,15 築地本願寺

1月14~15日にかけて、本願寺築地別院にて長谷清寿師から聞かせて頂いたお話のまとめです。

常例布教 築地本願寺 2012.01.14,15




善知識というのは自分を教化して下さる指導者のことです。親鸞聖人様にとっての善知識は法然上人様でした。

京都で勉強していた時、私は落ちこぼれでした。布教の勉強をしているとき、毎日試験と実演の繰り返しでしたが、私は龍谷大学も何も出ていないので教学のことは全然分からなかった。それで毎回毎回試験に落ちて。これでもか、これでもか、というくらいに落とされました。優秀な子は「頑張ったら大丈夫だって。出来る、出来る。頑張れ、頑張れ」と、そういう言葉は沢山くれるのですが、若い子は記憶力もあって覚えるのも早いです。私は39歳の後半で行ったので簡単には覚えられないのです。みんなの倍は一生懸命部屋にこもって勉強しましたが、覚えられないものは覚えられない。そして試験は次から次へとすべる。落第、落第、落第の中で「なんで私こんなんなんでしょうね」と先輩に相談した時に、色々な答えが返ってきました。「努力が足らないからかな」とか「勉強を始めるのが遅かったのとは違うか」とか。その中、ある先輩、、、ですけど若い先生は、、、実はその先生、昨日聞きに来てくれていたのです。私がここで話をすると分かっていて。だから緊張してたどたどしくなってしまいましたが、その先生はこう言ってくれたのです。「試験に落ちるということは、まだまだ勉強ができるということじゃないですか。いいなぁ。僕はうらやましいと思いますよ」と。普通ならば努力が足りないとか頑張れ頑張れという叱咤激励が多いのですが、頑張れ頑張れと言われるほど、落ち込んで辛い時には、そんな残酷な言葉はありません。「こんだけ頑張ってしよるねん、もうどないせいっていうんよ。あんた答え教えてくれるんけ」と関西弁で不平不満を言っていましたが、その先生は「勉強が続けられるって、いいですねぇ。うらやましいです」言ってくれた。落ち込んでいる私を、うらやましいと言ってくれた。その言葉に、本当に救われる思いでした。この先生の言葉がなかったら私はあきらめて「もういいです」と言っていたかもしれない、多分そうなっていたと思います。お金もかかる、時間もかかる、子供を放ったらかしにして住職に迷惑かけて、、、京都に約100日泊まり込みで集団生活していますから、これだけ迷惑をかけているのだから、これだけやってもダメだったら無理だわ、と思っていた矢先にその先生は慰めて、、、慰めるというよりうらやましいと言ってくれた。「勉強が続けられるって、いいですねぇ」とニコニコして言ってくれた。その言葉は本当に私の心に残る、一生忘れることの出来ない喜びとなりました。その言葉のおかげで「もうここまで来たんだ。やっぱりもう一回やってみよう」と、何とか何とか、ゴールにたどり着くことが出来たのです。

自分の人生の中でひっくり返るほどの感動、言葉に出会うということは、善知識との出会いと言って良いと思います。私にとっての善知識は、もちろん両親を尊敬していますが、その若い先生でした。皆様も、人生の中でそういう善知識という人にであうことがあると思います。また、今までにであってこられた方もあると思います。それを大事にして頂きたいと思います。




(中略)




皆さんは、五木寛之さんはお好きですか?直木賞作家の。龍谷大学で学ばれたりして、作家ですが浄土真宗に帰依されている方ですね。あの五木寛之さんが私の娘の高校に講演に来られたことがあります。そのときこう言われていました。

人生というものは、暗く細い夜道を、重い荷物を背負って歩いているようなものだ。そういう先行き不安だらけの心細い道ではあるが、遠方にポッと明かりが見えたとする。そうしたら、それだけでホッとする。何も歩く道が縮まった訳でもなく、背負った荷物が軽くなった訳でもない。でも、その光を目指して行けば確実に民家にたどり着ける、と思ったらそれだけで安心できる。

と。で、その光こそが、阿弥陀如来の光である、と譬えておられました。ああ、やっぱりさすが、作家は違う、と思いました。

本当にそう思います。辛いこと、悲しいことばかりの中で、行き先に一つの光が見えるだけで、荷物が軽くなる訳でも道のりが短くなる訳でもないのですが、それでも安心する。仏教的な考え方だと思いました。

浄土真宗の教えは、苦しみや悲しみを軽くしたりとか、なくしてあげようという、まやかしの宗教ではありません。それを乗り越える力を与えて下さる、先を照らして下さる、人生の指標がきちんと定まって下さる、というのが阿弥陀様の教えなのです。

五木寛之さんのお話、非常に良かったです。




(中略)




天台の千日回峰業は非常に過酷な修行ですので、戦後から40数名しか成し遂げられた方はいないということです。たまに何年かに一人、大阿闍梨といって千日回峰業を成し遂げた方がテレビで放映されたりしますが、その阿闍梨様は言われたそうです。千日回峰業は煩悩を断つが為の行ですが「自分が千日回峰業を成し遂げられたのは仏典のおかげだ、自分の力ではない、と本当に心から思ったけれども、その後で恐ろしいことに、自分は他人が成し遂げられなかった偉業を成し遂げたという驕りの心が沸いてきた。人間の煩悩の深さを思い知らされたことでございます」と。死ぬほどの行をした後でも、やはり煩悩を断つことは出来なかったということです。

煩悩は絶対に断つことが出来ません。私たちが生きているそのものが煩悩なのです。

私たち、阿弥陀様を信じていても「目に見えなかったら不安」と思われる方は多いと思います。でも、阿弥陀様は目に見えるようなちっぽけな存在ではありません。目に見えるのは有限のものですが、阿弥陀様は無限のお方です。

こちら側がどれだけ一生懸命色々なことをしても、煩悩を断つことは出来ません。親鸞聖人は幼少の頃からから29歳まで天台におられて、でもやはり煩悩を断つことは出来なかったことに幻滅して比叡の山を降りられました。そこで、煩悩あるがままで救われるという浄土の教えにであって感動されるのです。だから
建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
と、自分が20年間死にものぐるいでやってきた修行を全部「雑行」と言い切って法然上人様の教えについて行く、「本願に帰す」と年号まで入れて著されているのです。そのことを思うと親鸞聖人様と法然上人様のであいは人生を根底からひっくり返す偉大なであいであったと言えると思います。

私たちが助かるのは、阿弥陀様に摂取していただいて仏様になるのです。自分の力では決して往生できません。

ここ(本堂)に、お木像として手を合わせる対象として阿弥陀如来様がおられます。私たちの方に前屈みで立って下さっています。それと、皆様のお家は絵で描かれた阿弥陀様ですか?後ろに48本の(あれは四十八願を表わしているのですが)後光が差している、奇麗な絵の中に阿弥陀様がいらっしゃることもあります。そしてまた「帰命無量寿如来」と文字で表わされていることもあります。また、今皆さんが言われたように、口から出たお念仏があります。その中でどれが一番尊いと思われますか?答えは、自分の口から今出たお念仏が一番尊いのです。お木像ももちろん尊いので粗末にしてはなりませんが、煩悩で汚れきった自分からでも口からお念仏が出て下さる、その南無阿弥陀仏のお念仏が一番尊いのです。そう考えると、この本堂の中はお慈悲の中ですが、お念仏が口から出るというのはどこででも阿弥陀様は一緒にいて下さるということなのです。

阿弥陀様の世界は悟りの世界、煩悩のない世界。この娑婆は「世間虚仮」と言われるように争いや醜いこと、辛いことばかり。この娑婆を此岸と言います。そして涅槃、煩悩のない世界を彼岸と言います。彼岸は(生きている私たちは)誰も往ったことがありません。しかし、阿弥陀様の一方的なお働きですので、その世界へ往けるか往けないかは、迷おうが迷うまいが、自分は大丈夫だろうかと不安に思う時もあってもそれは私たちの構うことではないのです。仏様は極楽浄土という素晴らしい世界を用意して下さっています。そこに往けるのは当然決まっているのですが、往って見て来た方はいらっしゃいません。でも、それを疑う心はいけません。ただ一心にたのむというのが大事なのです。

私たちは今娑婆世界に生きておりますけれども、次に生まれる世界はとんでもない素晴らしい世界だということを信じて欲しいと思います。




(中略)


常例布教 築地本願寺 2012.01.14,15



お念仏というのは、私たちが声を出しているのですが、届けて下さっているのは阿弥陀如来様です。もし、とんでもない恐ろしい時になったら「南無阿弥陀仏」ではなく「たすけてー」「怖いー」という言葉が出るのではないかと思います。穏やかに「南無阿弥陀仏」と言えるような状態になればそんなに有り難いことはないですが、身の危険が迫った時というのは、まず「逃げたい」「怖い」と思う気持ちの方が先だと思います。阿弥陀如来のお言葉が私の口から出て下さる時というのは、阿弥陀様が私との交流をして下さっている時だと思うのです。だから自然と本堂の中に来たらお念仏が出たり、そして悲しいこと辛いことがあっても、心が穏やかになるのはお念仏を称えた時ではないかと思います。それは、阿弥陀様のお働きが今の私に届いている瞬間なのです。そう思わせて頂くと、念仏を何万回、何千万回称えたところで、私が称えたことが積み上がるのではない、1回1回のお念仏が尊いのです。有り難いのです。

何回お参りしてもどうもピンと来ないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でもそれはそれで良いのです。その方がお寺に来られるとか手を合わせるという行動をとられた時点で、もう救いの中にあるのです。自分に疑問を持たれるのは大いに結構です。でも、阿弥陀様への疑問は一切タブーです。阿弥陀様の独り働きだから疑う必要がないのです。仏様の教えは真実だし、仏様のお救いは絶対です。そのかわり、私たちの行いや願おうとするまやかしの心は虚仮の世界です。ウソばかりです。臨終の一念まで煩悩は消えることがありません。

親鸞聖人様は20年修行をされましたが、煩悩は断てないことを心から領解された上で、お念仏一つで救われるという世界に入られたのです。その時の感動は嬉しかったと思います。だから、法然上人様の教えを信じて自分が殺されるようなことがあっても、地獄に堕ちるようなことがあっても、悔いはないと仰っています。それほどの方とであえるというのは幸せな方だと思います。

浄土真宗のお念仏は報恩感謝のお念仏で、お願いするお念仏ではありません。こちらからお願いしたら何か返って来るだろうと期待するじゃないですか。そんなギヴ・アンド・テイクのお念仏ではありません。ありがとうございます、よろしくお願いします、お任せいたしますのお念仏です。阿弥陀様の独り働きですから。

阿弥陀様のお力を大悲ということがあります。「大」が付く時は必ず阿弥陀様のことです。「愛」と「悲」とは違います。愛には憎しみが生まれてきます。でも大悲には慈しみの心しかないのです。阿弥陀様は煩悩にまみれた私たちを慈しむ心で照らして下さっているのです。それは目には決して映らない、そして私の力でどうこうしようともどうなるものでもない、阿弥陀様の方からすべてお見通しです。だから、悟りの世界に往きたいとか彼岸の世界がどうなるとか、そういうのはこちら側の言い分であって、阿弥陀様の世界はとんでもなく素晴らしい世界です。だからすべてをお任せするのです。

皆さん、カナヅチってご存知ですか?溺れる人というのは、ジタバタするから溺れるのだそうです。あれ「もう、どうでもいいや」と力抜くと浮くんです。これ不思議ですね。阿弥陀様の世界を「本願海」と海に譬えられることがあります。大きな海原というのは、力を抜いたら本当に穏やかに浮くのだそうです。ジタバタして何とかしようとすると、沈んでとんでもないことになるのです。それと同じで、こちらでジタバタしてもどうにもならないのです。阿弥陀様の懐に入ったらフワッと浮いたのと一緒です。

辛いこと、悲しいことはこれからあるかもしれないし、これまでにそういう経験をした方は沢山いると思います。でも、その一つ一つのことが全部阿弥陀様の救いの中にあったということを自覚して頂ければ「阿弥陀様のことは見えない」「阿弥陀様とはどんな方だろう」「自分は本当に大丈夫だろうか」というような疑問なんか吹っ飛んでしまう力があるのです。阿弥陀様の方からの力はとてつもない力です。自分で確かめることは出来ない、確かめることが出来るのは、皆様が仏様に成った時だけです。この娑婆の世界でどうだこうだと思うことは一切関係ありません。ただただ感謝、お念仏。そのお念仏も、阿弥陀様が我が口から出て下さるようになっている、いい仕組みがちゃんと整っているのです。浄土真宗の教えは決して行をするのではない、阿弥陀様が私たちに代わってして下さっているので、あなた達はもう何もすることはないよ、ただただ報恩感謝のお念仏を称えて私の元に戻って来いよ、というお浄土を整えて下さっているのです。



なにか質問ございませんか。なければ姫路の名物お教えしますよ。生姜醤油のおでん。私は姫路生まれの姫路育ち。地元を愛しています。故郷というのは良いものですね。生姜醤油にちょっと砂糖を落として食べるおでんは美味しいですよ。一味唐辛子を入れて食べる人もいます。だからおでんそのものは薄味です。


常例布教 築地本願寺 2012.01.14,15





梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (12)[「五逆罪」について]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (11)[「乃至十念」の称名]の続きです。

十六、「五逆罪」について

第十八願の最後に、「ただ五逆と正法を誹謗せんとをば除く(唯除五逆、誹謗正法)」と誓われていますが、それはどういう意味ですか。

五逆罪を犯し、仏のみ教えを誹り、人びとの心の拠り所を失わせるような行為をしている者は、救いから除外するという意味です。



五逆罪とは、どういう罪のことですか。

五種類の反逆罪ということで、「父を殺す」「母を殺す」「阿羅漢を殺す」「仏身より血を出だす」「和合僧を破る」という五種の犯罪をいいます。これを逆罪というのは、反逆罪だからです。すなわち自分を愛し、幸せを願ってくれた人の愛情を善意を裏切り、恩を仇で返す行いであるからです。



五逆罪について詳しく説明してください。

まず父親や母親は、私を生み、深い愛情をこめて育ててくれた、この世で一番深い恩を受けている方です。その父や母を、自分にとって都合が悪いからというので殺してしまうのですから、この世の中では一番重い罪であるというのです。『観無量寿経』や『涅槃業』に、マガダ国の皇太子であった阿闍世が、提婆達多に唆されて父の頻婆娑羅王を殺害して王位を奪い、それを止めようとした母の韋提希夫人までも殺そうとした事件が説かれています。「阿羅漢を殺す」という阿羅漢(最高の聖者)とは、愛欲や憎悪といった醜い煩悩をすべて断ち切って、仏弟子としては最高の境地まで達し、人びとを導いていかれる聖者のことです。
 釈尊の弟子の中でも、舎利弗尊者と並んで神通力第一と崇められていた目連尊者は、晩年、王舎城内を托鉢されていたとき、仏教に反感をもつ異教徒のために殴り殺されています。暴漢は町の人の通告で官憲に逮捕されましたが、目連尊者は瀕死の重傷を受けながらも官憲に対して、「その人を決して死刑にしないでください、よく話せば必ず心を改めて正道に目覚めてくれるはずだから」と、言い残してなくなります。尊者のその言葉を聞いて、やがて暴漢も心を改めて仏教に帰依し、罪の償いをしながら多くの人びとを導いていったといわれています。目連尊者のような尊い阿羅漢を、自分の主義主張に合わないというだけで殺してしまうような人もいたのです。
 「仏身より血を出だす」というのは、提婆達多の故事によっています。釈尊の従弟であり仏弟子にまでなった提婆達多ですが、釈尊が多くの人に尊敬されているのを妬んで、殺そうとして、崖の下を歩いておられる釈尊をめがけて大きな岩を落としたことがありました。幸い岩は途中で岩と岩の間に挟まれて落下しなかったので、釈尊は助かりましたが、落ちてきた岩の破片で足に傷を受けられたといわれます。
 「和合僧を破る」という和合僧とは、僧伽(サンガ)の訳語です。仏陀の誡めを守って生きる修行者たちの「和やかな集い」という意味で、自我を主張して争うということがない集団ですから和合衆とも訳しています。それは釈尊の教えを正しく伝えていくと同時に、仏弟子を育て導き、迷える人びとの心の依り所となる「仏教集団」のことです。提婆達多は、その和やかな集いを攪乱し、さまざまな策略をめぐらして、集団を分裂させたといわれています。もっとも提婆達多に従って分派行動をとった人たちも、最終的には舎利弗の説得によってほとんどが帰参して、たくらみは失敗したといわれています。
 この五逆罪の中、父を殺し、母を殺すことを、恩田に背くといい、あとの三種を福田に背くと呼んでいます。よく耕された田畑は、素晴らしい収穫を与えてくれるように、父や母は自分を生み育ててくれた、この世での最高の恩人だから恩田というのです。仏陀・釈尊はいうまでもなく、阿羅漢と呼ばれる聖者や、仏弟子たちの集い(和合僧)は、私たちに真実の安らぎを与えようと教育してくださる方々ですから、福田(まことの幸せをもたらしてくださる方々)と呼んでいます。このような五逆罪を犯す者は、自分はそれで幸せになれると思って行ったのでしょうが、罪を犯したときから、現世から来世にかけて、一瞬の間断(絶え間)もなく重い責め苦を受け続ける無間地獄に堕ちますから、「五無間業」(無間地獄に堕ちる五種の悪行)ともいわれています。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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【法話】光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 2012.01.08 築地本願寺

一つ前の投稿の続きです。

仏説『観無量寿経』というお経様に
光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
というお言葉がございます。
光明は遍く照らし、十方の衆生を摂取して捨てないというお心であります。
「無碍光」「超日月光」と言われますが、光といっても月の光やお日様の光はどうしても当たらない所が出てきてしまいます。つまり影のことでありますが、それを超えているというのが「超日月光」です。お正信偈さまにも「超日月光照塵刹」と出てきて下さいますが、その光は単なる光ではなく、日月に超え優れた光であります。なぜなら碍り(さわり)無き働きをする光であるからです。至らない所はないのですよ、というのがその心です。

(「破闇」「調熟」に続いて)3つめは「摂取」の光明です。「摂取心光常照護」とお正信偈さまに出て参りますが、摂取の心光、常に照らして護り給うということです。常に照らしている。照らしていない時がない。仏様の心の光ということです。ここで「護る」とおっしゃって下さっていますが、私の都合の良い状況を護って下さるというのではありません。先ほど(前回の投稿)の「衆禍の波転ず」のところで話した事をお聞き下されば、どうだそうだと思われるかもしれません。健康を護ってくれる、長寿であることを護ってくれる、学校の試験がうまいこといってくれることを護ってくれる、、、そういう護るではありません。

親鸞聖人は
異学・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさへられず、天魔波旬にをかされず、悪鬼・悪神なやますことなし
(『一念多念証文』)
というお言葉でおっしゃって下さっています。
異学・異見とは、私たちには到底叶わないご修行をされている方々です。仏様に成るに、まことの道を進むに、厳しい修行を重ねながら智慧の眼を開こう、悟りを開こうとされている方々です。それらの方々にやぶられないとは、「お前、そんなのウソやぞ!そのままで、念仏したくらいで仏様に成るなんて、そんなのウソやで!」といわれても「そんなことないです。私は私の力で仏様に成らせて頂くことは出来ない、この生死の苦悩を超えて行くことが出来ないから、仏様がお念仏を与えて下さった、と聞かせて頂きます。行をされる方は行をして下さったら結構だけれども私向きではないのだよ、と名乗り出て下さった方が阿弥陀仏という仏様であります、と聞かせて頂いております」ということです。聖道門からは比叡山という山で修行されたり永平寺という寺で座禅を組まれたり、そんな方々はそれはそれで尊い行があるのかもしれませんが、私たちは南無阿弥陀仏という阿弥陀様の大行を頂戴し、この口で念仏させて頂く、、、ただ念仏するだけでなく私自身の闇が破られ、一瞬一瞬花開かせて頂くような働きを私の上に展開して下さるような仏様がいまここにおいで下さっているのです、お念仏一つとおっしゃって下さる仏様がおいでになるんです、ということです。この方々(異学・異見のともがら)を批判することはなく、行をされる方はして下されば良いのですが、ただ「お前、そんなことでは」と言われる方々に「あなたはそう思われるかもしれないけれども、仏様はそうはおっしゃってはおられないのですよ」とそのまま歩ませて頂くということです。
別解・別行というのもある意味それと同じです。お念仏するといっても、何遍念仏した、こういう心持ちで念仏した、その功徳として重ねさせて頂くことでお浄土に生れさせて頂く、仏様になるということをされる方々から邪魔されることはないということです。
天魔波旬にをかされずというのは、仏様から頂いたお念仏の智慧を破られることがないということです。世間には宗教という名前で色々な信仰がございます。熱心に信仰したら病気が治るよ、という新宗教もあります。熱心に頼み込んだらあんたの学校ええ所に行かせてもらえるよ、という宗教もあります。お金持ちになれるよ、と宗教という名で信仰を促すところもあります。しかし仏様がおっしゃられるのは、どれだけ頑張って祈って健康を守ったとしても必ず壊れてゆく身なんだよ、必ず終わらなければならないのよ、必ず崩れるのよ、そこことだけは間違いないよ、と言って下さいます。その言葉は智慧であります。ずーっと長寿で、ずーっと健康で、ずーっとこの体が保たれるように思わせているようなものを「天魔波旬」という言葉でおっしゃって下さっています。お金ぎょうさん欲しいのは分かるけれども、仏様はおっしゃられます。あなたは貪欲というものがあって、お金が一杯あったら一杯あったで悩みますよ。お金が手に入ったからといってあなたの悩みがすっきり無くなるわけではないのだよ、ということを教えて下さるのが智慧です。
悪鬼・悪神なやますことなし。まあ、色々なお誘いがありますよね。六本木ヒルズに居るような人をヒルズ族と言われましたが、あんな生活は良いよ、とマスコミからお誘いがあるでしょ。「セレブ」といってお誘いがあるでしょ。「勝ち組・負け組」という言葉でもお誘いがありますね。あんた、負けてたらあかんで、勝たにゃあかんで、頑張らんとあかんのやで、と。でも「頑張り続けられへん」「頑張ってるねんこれでも」と思いますね。「アンチエイジング」というお誘いもあります。年寄りは若う見せんと世間で恥ずかしいで、と。新聞・雑誌・テレビ・ラジオ、、、色々なお誘いがあります。そのお誘いに悩まされることがないということです。世間の価値観に悩まされることがないということです。私は私なりに頑張ってるんやけど頑張りきれんところがあるのをご存知やし、頑張ってるところもご存知やし、どうしようもない奴だということもご存知やし、負け組にしかなれんような器であることもご存知やし、壊れてゆく身であることもご存知やし、ぼろぼろであることもご存知なのです。皆さん、奇麗な帯みたいに紡がれたような人生じゃないでしょ?私なんかこの歳でもうつぎはぎだらけですわ。そんな奇麗やないということをご存知です。その、壊れゆくまま、ぼろぼろのまま、弱々しいままに、決してもう壊れない世界に生れさせて頂き、壊れゆく身であるがままに、それをもう壊れない身に仕上げてゆくぞ、と言うて下さる方がここに居って下さるのです、と教えて下さいます。悩まされることがない、それが守られるということです。世間の事柄に動揺させられたり振り回されたりするようなことがないということです。あなたはいまあなたがそこにいるままで、懸命に、下手くそながら生きているのを私は見ているよ、下手くそやからよう捨てん、と言うて下さる世界を、今ここに頂戴しているのです、と歩ませていただくのです。

その光は休むことなく私を照らして下さるのです。休むことなくとは、結局は私のこの口に出て来て下さる姿になっておりましょ?「なまんだぶ、なんまんだぶ」と。ずーっと仏様は居って下さいます。皆さんお念仏しておられますか?念仏したら護られますよ。念仏しながら誰かの悪口言えないでしょ?「あいつ、あのアホ」と言うのと「なんまんだぶつ」と一緒に言えないでしょ?いらんこと言うのも摂めとって下さっています。考えてみれば、お念仏申させていただけるようなそんな仏様に成って居って下さっているということは、常の仏様でありますよ、と仏様の方が整えて下さったのです。そしてそれが今私に届いているのです。

このお心は、届いているというだけではないのです。親鸞聖人は
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
(浄土和讃)
というご和讃をお詠み下さっていますが、そのご和讃の中で「摂」という字を
もののにぐるをおわえとるなり
とお示し下さっています。逃げるんですって、私は。護って下さると言うて居って下さいますが、世間のお誘いがあったらフラフラと行ってしまう私を追いかけて捕まえると言われます。「取」とは
ひとたびとりて永く捨てぬなり
とおっしゃられます。

私は大阪の行信教校という学校で学ばせて頂きました。そこに、騰(あぐる)先生という兵庫県の先生がご講師としておいで下さってましたが、その先生が授業の中で、今申しましたご和讃のご講義をして下さいました。私はたまたま一番前に座って居ったんです。先生は、私の顔をじっと見て「佐藤君、私の話をいま聞いたか?」と言うのです。そして「今言うたやろ。もののにぐるをおわえとるなり、と。これ誰のことか分かるか?」と聞きはりました。私、それがさっぱり分かりませんで「さあ、誰のことでっしゃろうか」という顔をして先生をじっと見つめていましたら、「あのな、あんたのこっちゃで」と言われました。「そうですか、私のことですか」。その時のことが鮮明に思い出されるのですが、その後、騰先生は言い直されました。「いやいや、わしのこっちゃ。もののにぐるというのは、逃げとんのはわしのこっちゃ」と。逃げている者と聞くと、他の誰かのように聞こえますが、お誘いにフラフラと行きそうな私は、また煩悩が好きでねぇ。仏様からすると逃げとるんですね。それを追いかけると言われています。なんで追いかけはるんですかね?危ないからでしょう。放っとけんからですよ。そんな迷いの姿のままに生かせる訳にはいかんからでしょ。そんな者を追いかけて、きちんと抱き取るとあります。「ひとたびとりてながくすてぬなり」です。
騰先生、、、珍しい名前でしょ。「騰瑞夢(あぐるずいむ)」先生は、とにかく私達学生に「仏様が念仏せい言うてんのやから、念仏したらええ」と言われました。「念仏せい、念仏せい」とおっしゃって下さる先生でした。有り難いですね。先生の居られない所で私は何を言っているのでしょう。騰先生が今ここにおいで下さっているんでしょうかね。「佐藤よ、覚えとってくれたんか。今日はようお念仏の話をしとってくれとるのう」と。見えますか?背後霊とちゃいますよ。菩薩様となって私の所に届いて下さっているのです。「お前もお念仏を喜ぶ身か?」と喜んで居って下さるのでしょう。その先生が、私たちにこんな言葉をおっしゃって下さっています。ちょっと方言が強いかもしれませんが、そのまま読ませて頂きます。
皆さん、念仏しまひょいな。阿弥陀様がそうおっしゃって下さっておるのでありますから。どんなことがあっても必ず救うてみせる、念仏しながら、わしの名を呼びながら生きて来い、こうおっしゃって下さっておるんです。どうです?それ聞いて、必ず救うと聞いて、腹が立ちますか?癇に障りますか?そんなことはございますまい。どんなことがあっても必ず救うてみせる、念仏しながら、わしの名を呼びながら生きて来い。それを聞いて、なまんだぶつ、なまんだぶつとお念仏しますねん。そしたら阿弥陀様が、おお、よう聞いてくれたな。お前はわしの子ぞ。というてお喜び下さるのであります。私は、騰瑞夢いうて、難しい名前やけど、娑婆では田中やら山田やらいろんな名前がありますけど、これは娑婆で区別するための名前でございましょ?阿弥陀様から言わせたら、お前は阿弥陀家の子ぞ、娑婆では騰瑞夢か知らんけど、わしから言わせたら阿弥陀瑞夢ぞ、とおっしゃって下さっておるということではございませんか。阿弥陀家の一族にならせてもらうということでございましょ?どうぞ、何事も思うようにならぬ世の中でありますけれども、阿弥陀様のご本願を仰いで、なまんだぶ、なまんだぶつとお念仏称えながら生かせてもらいたいものであります。お念仏しまひょいな。
皆さん、おうちに表札かかってますか?あれはサービスですよ。郵便局の方と宅急便の方への。訪れて下さる方へのね。あれは娑婆の仮の名前であります。「あなたは阿弥陀家の子よ」と仏様はおっしゃって下さっています。「もう捨てられない世界にあなたは今居るのよ。何も心配することはないよ」と言うて下さっています。それを聞いて癇に障りますか?と言うてはるのです。親とはそうですよね。出来の悪い子ほど親は可愛いと言われます。自分は出来が悪いとは思っておりませんけれども、出来が悪いんでしょうね。心配でたまらないのでしょうね。そやから「お前はうちの子」と言うて、どんな悪さしても迎え入れてくれるのを、我々は親と言うて、その名で呼ばせて頂くのでしょう。「お前はわしの子、お前はわしの子」と呼んで下さる方が居るのですよ。その呼び声が南無阿弥陀仏というお念仏ですよ。と、騰先生は私にお勤め下さいました。

「忘れまじ 忘れまじとは思えども 忘れがちなる 南無阿弥陀仏」。利井鮮妙先生(記録者の聞き違いかも?)だったかな?「なんまんだぶやで、なんまんだぶと呼んでおって下はるで」と言うのやけど、忘れますわね。みのもんたさんと一緒にテレビに向かって文句言うてますわ。この政治家が悪い、と言ってね。こいつが悪い、こいつが悪いと。すっかり忘れてますなあ。でも、この歌は単なる悲しい歌ではなくて、この裏側にあるのは、その忘れがちなる私を忘れんぞ、と言うて下さる仏様が居って下さる、それが「摂取心光常照護」「大悲無倦常照我」。常でありますよ、常でありますよ、とおっしゃって下さる心です。

大和の清九郎さんという方がおいでになられました。仏教によく親しまれ、仏法をよくお聴聞された方でした。時のご門主が清九郎さんにおっしゃいました。「清九郎よ。ご法義相続しとるかぁ。繁盛しとるかい」と。要は、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏ちゃんとしとるか、ということです。そしたら清九郎さん「いやいやー、よう忘れますねん。念仏せいちゅうのは分かってまんねんけどね、よう忘れますねー」と。そしてその後こうおっしゃいました。「わたしゃよう忘れるけども、お前のことは忘れとらんぞという仏様の方から時々たずねて下さいます」「私の方が忘れて居っても、お前のことは忘れんぞといって、南無阿弥陀仏と時々たずねて下さいます」と清九郎さんはお喜びになっていたということです。

「忘れまじ 忘れまじとは思えども 忘れがちなる 南無阿弥陀仏」とは、忘れがちであるこの私を、決して忘れんよ、という大きな仏様のお心の中にただ今抱かれているのですよ、という喜びがあるのですね。そやから、忘れるのをご存知なのです。どうしようもないですね。何の条件も私のところには整いませんね。賢くも出来んし、努力をし続けることも出来んし、世の中のことには振り回されかねへんし、これしなさいと言って下さったそのこと一つも続けられへんし。その私の所には何の条件もつけられず、全部わしが引き受けたというて整うて下さったのが南無阿弥陀仏というお念仏です。いつでもお前から離れんよ、いつでもお前を見捨てることはないよ、いつでもお前のことを摂め取ってるよ、と仏様は私を抱き取り続けて居って下さるのです。それを光明の働きとして親鸞聖人はお喜びになってゆかれました。

正信偈さまで数えてみて下さい。「光」という字がいくつ出てくるか。親鸞聖人にお尋ねしますと、仏様とは光の方ですと言われます。ウルトラマンみたいですけどね。それは、その光によって闇が破られ目覚めさせられながら、目覚めさせられつつある人生をこの私に恵んで下さる。その恵んで下さった私を決して離さない、と摂め取って下さる仏様が今私の所に居って下さいます。

さっき「騰先生がここにおられるんですよ」と申しましたが、諸仏・諸菩薩方はお念仏する一人の念仏者の所に来られて、百重にも千重にも取り囲んで喜んで下さるのです。「ようようお念仏申す身になって下さって、ようよう阿弥陀様のお光の働きを喜ぶ身になって下さって」と。私は今お寺の住職をさせて頂いておりますが、ご法座を開きますと、今日は何人来はったやろかと気になります。沢山お参り下さったら、それはそれで嬉しいのですが、いくら100人居っても、1000人居っても、1万人おっても、「一宗の繁昌」という言葉で蓮如上人教えて下さいますが、お念仏がなければそれは法座とは言えんのでしょうね。逆にお念仏を喜ぶ人が一人居れば、百重千重の諸仏・諸菩薩方がそこに居って下さって、たった一人のその道場は満堂なんだそうです。しかし1000人、万人、10万人、1億の人が居ったとしても、一人たりとも念仏を申さないのであれば、それはゼロに等しいということであります。兵庫県神戸に、くぼいこうぎ(?)という先生がおいで下さったことがあります。その先生がよくおっしゃっていました。ご法座にお一人座って居って下さって、その方とお念仏させて頂けたら、それ以上幸せなことはないと。沢山頭数が集まっていることが仏様のお喜びではなくて、お一人お念仏申して下さることが仏様の無上の喜びとなって下さるのだと言うて下さいました。これは僧侶である私の一つの課題でありますが、光明の働きに触れながら、一つ一つ、一歩一歩、足取りはおぼつかないのですが、おぼつかない足取りをご存知の仏様が、おぼつかないままに「ほれほれ」と抱き取りながら、私をお浄土へと導き、方向を示して下さり、私の生き方を教えてくださるのです。

そのような道を、今、お念仏申しながら、そこに開かれているのが信心という道です。信心とは、何か、ものではないのです。「信心獲得」と蓮如上人がおっしゃって下さりますと、何か形のあるものが私の所に来て、懐に入れるようなもののように思いますが、信心とは他でもない、あなたは今弥陀に抱かれながら、弥陀の光明に包まれながら、お浄土へと生まれて往く身でありますよ、ということに「そうでしたか」と言うだけであります。そこに開かれている道、そこに開かれている世界を信心という言葉でお示しになられ、それを私たちは聞かせて頂いているのであります。


最後、蓮如上人のお手紙を頂戴いたします。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを「一念発起入正定之衆」とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまいし、御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ



ご一同様に、ご領解出言。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来我等が今度の一大事の後生御たすけさふらへと、たのみまうしてさふらふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、この上の稱名は、御恩報謝とぞんじよろこびまうしさふろふ。この御ことはり聴聞まうしわけさふろふ事、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識の、あさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候。此うえは、さだめおかせらるる御おきて、一期をかぎりまもりまうすべく候。





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