ALWAYS 三丁目の夕日(吉岡秀隆、堤真一・主演)

 携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう
 昭和33年、東京タワー建設中の物語。ジーンと、静かに熱く泣ける映画でした。単に「懐かしい」では終わらない、人間として大切なものを思い出させてくれる作品です。日本人も、そうでない人も、世代を超えて全ての人に観てもらいたいと思わずにおれません。映画好きの知人が、事ある毎にこれを勧めてきた気持ちが理解できました。
 タイトルの「ALWAYS」が重要であると、最後に分かります。
(母・トモエ)今日もきれいね。 (父・則文)きれいなだあ。 (子・一平)当たり前じゃないか。明日だって、あさってだって、50年先だって、ずーっと夕日はきれいだよ。 (トモエ)そうね。そうだといいわね。 (則文)そうだといいな。
(↑「ネタバレ」とまではいきませんが、感動的な場面なので、マウスでドラッグしないと見えないようにしました)
「三種の神器」がテレビ・冷蔵庫・洗濯機、と言われたのは、それこそ昭和の話。今はデジカメ・DVDレコーダー・薄型テレビを指すようですが、科学の長足な進歩とは裏腹に、殺人、虐待、自殺、戦争などは減らないどころか毎日のように報道されています。  物質的に恵まれ、「便利」な世の中になることが幸せならば、明治よりも大正、大正よりも昭和、そして平成の時代の人の方が幸福なはずですが、果たしてそうなっているでしょうか。
 幸福感とは、環境の変化ではなく、人間の「こころ」の状態によって変わってくるものだと言えるでしょう。
「嬉しい」とか「悲しい」「腹が立つ」などの心は、いつの時代のどんな人にもあるものです。生まれたばかりの赤ん坊も、誰から教えられることもなく、感情を持っていると言われます。時代を超え、国を超えて、多くの人々に共感を与える芸術や文学はたくさんあります。
 恐らく、縄文時代の人も、現代人も、本質的には何も変わっていないのだと思います。そんな人間の存在は、雄大な大自然に比べると本当に小さなものです。真の幸福とは、時代や人の力に左右されるものではなく、「常に(Always)」変わらないものではないでしょうか。
 そんなことを、美しい夕日のポスター 夕日 を見ながら思ってしまいました。
 この映画、内容もさることながら、音楽と映像の出来に感動しました。「ここは一体、どうやって撮影したのだろう」という観点から観ても、くり返し鑑賞するのに堪え得る完成度だと思います。オフィシャルサイトのBGMで流れている曲は冒頭から使われており、当時生まれていなかった視聴者をも昭和30年代に誘うのに成功しています。  そして俳優の演技力も素晴らしいです。特に子役の活躍が印象的でした。
(中文字幕付)予告編

 続編が話題になるのも納得のゆくところです。

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こうの史代 ~ 夕凪の街 桜の国

 仕事の関係で、広島に半年ほどいた頃がありますが、そのとき知り合ったおばあちゃんのSさん。被爆者健康手帳を持ち歩き、華奢なお体ながらも明るく前向きな性格に、大変心を動かされたことがあります。しかし被爆時のお話を聞かせて頂くと、如何に悲惨な状況が当時繰り広げられていたかが知らされ、まるで現実とは違った世界がそこにあったかのような感覚になります。
 先日、ある人の勧めで『NHKスペシャル』の「核クライシス」(第1回第2回)を見ました。核兵器の、物質的破壊力に戦慄を覚えましたが、それとは対照的に心理的・精神的側面から静かに反戦を訴えているのが、こうの史代さんの描く、被爆体験者を主人公としたこの作品、『夕凪の街 桜の国』です。身近な、現在の話題として読むことが出来ます。原爆の悲惨さは、物心両面からとらえてゆくべきものだと思いました。
ぜんたい この街の人は 不自然だ
誰もあの事を言わない
いまだにわけが わからないのだ
わかっているのは「死ねばいい」と 誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ
そしていちばん怖いのは あれ以来 本当にそう思われても仕方のない 人間に自分がなってしまったことに
自分で時々 気づいてしまう ことだ
(中略)
あれから十年
しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し
すべて失った日に 引きずり戻される
おまえの住む世界は ここではないと 誰かの声がする
(中略)
十年経ったけれど 原爆を落とした人はわたしを見て 「やった!またひとり殺せた」 とちゃんと思うてくれとる?
ひどいなあ
てっきりわたしは 死なずにすんだ人 かと思ったのに
ああ 風……
夕凪が終わっ たんかねえ
このお話は まだ終わりません
何度夕凪が 終わっても 終わっていません
 多くの人は、生まれてきたこと、そして今を生き、これからも生きてゆくことを当たり前のように思っていますが、「死ぬのも苦、生きるのも苦」という境涯の人もいるのだと、切ない気持ちになりました。自分がそういう立場なら、「こんな人生、なぜ生きねばならないのだろう」と思うに違いありません。
 しかしよくよく考えてみれば、いつか死んでゆかねばならないのは全人類平等であり、罪悪を重ねずしては生きてゆけないことは、殺生一つをとってみても明らかなことです。被爆者も、健常者も、老若男女、貴賎貧富の差なく、皆、この実相に変わりはありません。
 戦争といっても、不幸になりたくて始める人はいない訳ですから、反戦運動の根底には「生きるとは」「幸せとは」という問いがまずなければならないと思います。
 さて、話戻って先述したSさんに「元気の源は?」と尋ねると「うちは安芸門徒じゃけ」と一冊の本を渡されました。そのものずばり『なぜ生きる』。安芸門徒とは浄土真宗の信者のことですが、この本の後半は「親鸞聖人の言葉」となっています。以前読んだことがありますが改めて読み返してみたいと思いました。

とどろき ~ 平成19年8月

 8月といえばお盆、お盆といえば墓参り、墓参りの習慣は仏教から出ていると思いきや、意外や意外、「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したること未だ候わず」という言葉が紹介されていました。1から分かる浄土真宗というコーナーです。葬式は確かに、仏教から出ているものですが、その「こころ」が一般に思われているものとは違うようです。今月は「葬式・法事・墓参りの心がけ」というテーマで説明されていますので、以下、要点を書き出してみると、、、
①追善供養を否定された親鸞聖人  世間では、「盛大な葬式をしないと死んだ人が浮かばれない」「墓も立派にせよ」「お経さまだけが死人のごちそうだ」などといわれます。また、そう教えるのが仏教だと思われています。  ところが、親鸞聖人は、 「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したること未だ候わず」(歎異抄)“この親鸞は、亡き父や母の追善供養に一回の念仏も、一巻のお経も読んだことがないのだよ”と、びっくりすることをおっしゃっています。しかし、これがお釈迦様の教えでもあるのです。
②葬式や読経で死者は浮かばれない  ある時、お釈迦様に、「長いお経を読んでもらったら、地獄に堕ちている者でも極楽へ往けると言う人がいるのですが、本当でしょうか」とお弟子が尋ねました。  その時、釈尊は黙って小石を一つ拾われると大きな池に投げ込まれ、「この池の周りを、石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれと言いながら回ったら、あの石が浮かんでくると思うか」と反問されました。「そんなことで石が浮かぶはずはありません」と答えると、「そうだろう。石は石自身の重さで沈んでいったのだ。人は己の過去に造った業によって次の世界に沈むのだ」とおっしゃっています。
③肉体の葬式より魂の葬式が大事  では、死んで極楽浄土へ往けるかどうかは何によって決まるのでしょうか。  それは「この世で弥陀の本願に救われているかどうかで決まるのだよ」と、親鸞聖人は教えられています。弥陀の本願とは、ジゴクから地獄の綱渡りを続ける私たちを、必ず絶対の幸福に助けると誓われた阿弥陀如来のお約束です。その弥陀の誓いどおり、迷いの魂の打ち止めをせられた人は「いつ死んでも浄土往生間違いなし」と大安心の身に、ただいま生かされます。この「魂の葬式」ができたならば、肉体の葬式や墓などは問題にならなくなると聖人はおっしゃるのです。
④葬式・法事・墓参りの意義  ならば葬式や法事、墓参りは無意味なのかといえば、それは全く私たちの心掛けいかんにかかっています。  多くの人が集まるこの機会に、亡くなった人をご縁として無常を見つめ、真剣に後生の一大事を心にかけて、一心に阿弥陀如来の本願を聞けば、みんなが本当の幸せに救い摂られるのですから、これほど尊いことはありません。それが亡くなった人の最も喜ぶことでもあります。また墓参りも先祖供養の習慣としてでなく、忙しい毎日の中で、世俗を離れ人生を深く見つめる得がたいご縁とさせていただくならば、有意義なものとなるでしょう。
 ということで、葬式・法事を否定されたというよりは、その心がけを戒めるために、あえてびっくりするような言い方をされた、と受け止めるべきなのでしょう。  ポイントは、葬式といっても「肉体の葬式」と「魂の葬式」の2つがあるということでしょうか。「魂の葬式」とは聞きなれない言葉ですね。“迷いの魂の打ち止め”という表現もされていますが、魂は流転輪廻するのでしょうか?  この「とどろき」ではしきりと“平生に人生の目的が達成できる”ことが強調されていますが、人生の目的達成したときが魂の葬式なのでしょうね。すると、その葬式は生きているときに済ませられるということで、それこそびっくりする教えだと思います。

    2012年5月
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