中西智海 / 親鸞教学入門(6)

(5)の続きです。

仏教でいわれる「救い」

 仏教では「救済」ということをどのように考えてきたのでしょうか。
 まず、原始仏教では、迷いから解放されること、すなわち「解脱」、永遠の平安に入ること、すなわち「涅槃」ということが強調されました。そういう意味では絶対の救い主によって救済されるという考え方ではありません。もちろん仏教には帰依というこころが説かれて、仏教やその他の長老僧に対する帰依によって安心の境地がもたらされるということがいわれています。
帰依は救済を義とす。彼を依とするによりて、能く永く一切の苦を解脱するが故なり(『倶舎論』)
とあります。更に、父王を殺した罪におののく阿闍世王が仏陀に向って
願わくは世尊よ、今日より後、命の終るまで三宝に帰依せる在家信者としてわたしを摂受したまはんことを。わたしは愚かなるまま、迷妄なるまま、不善なるままに罪に征服せられ、王権を得んためにかの正しい父王を殺した。世尊よ、私の罪を罪として摂受したまはんことを
と訴えたとき、仏陀は
大王よ、おんみは罪を罪と認め、法の如くそれを懺悔せらるる故に、おんみによってなされた懺悔をわれわれは摂受する
と答えられました。摂受はもともと「相手を受け入れる」「衆生を慈悲の手に摂め受けて育て護る」という意味があります。
 この「摂受」が仏陀の「救い」の最も古い形といわれ、やがて大乗仏教の展開の路線にそって阿弥陀仏による摂取という教えとなり、救いの対象も阿弥陀仏や三世の諸仏になったといわれています。
 『無量寿経』に説かれる四十八のこころなどはその典型であるといってもよいようであります。どのような悪人も罪業の人も、弥陀に摂取されて救われる。いやすでに救いは成就されているともいえるのであり、衆生はそれをまうけに領受する、うなずくひとつで、その救いにあずかるというのであります。

親鸞聖人と「救い」

弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつ心のおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり
『歎異抄』冒頭の言葉であります。この言葉のうちに親鸞聖人の真宗での救いの特色が鮮やかに示されているといえます。
 すなわち、真宗での救いは、いつ成立するのかという問いに対して、「念仏まふさんとおもひたつ心のおこるとき、すなはち」と告げられてあります。弥陀の本願にほんとうにうなずいたとき、すなわち本願を信じたときもはや救いは成立しているというのであります。救いは平生の「今」であって臨終のときではありません。
  親鸞聖人は臨終の来迎(浄土を救い求める人の臨終に阿弥陀仏が菩薩とともに迎えに来ること)の期待を強く否定されております。
真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す。この故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生また定まるなり、来迎の儀則をまたず(『末灯鈔』)
とのべられています。さきの『歎異抄』では、「念仏まふさんとおもひたつ心のおこるとき」間髪をいれず「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」となっています。「おこるとき、すなはち」と即時であるというのであります。念仏してから、臨終を経て、救われるのではありません。弥陀の本願にうなずいたそのときもはや救いは成立しているのであります。ですから、信心が救いの手段であったり条件であったりするのではなくて、信心のほかに救いが別にあるのではないということであります。これを「平生業成」というのであります。平生のときに業事成弁するというのであります。信心に何ものかをプラスして救われるのではありません。信心そのものが救いであります。その信心も「たまはりたる信心」でありますから、私のはからいではありません。
 こうして親鸞聖人はどこまでも、「今」の救い、いや、救いへのうなずきを讃嘆し、慶喜されたのであります。
然るに今特(こと)に方便の真門(しんもん)を出て選択の願海に転入せり。願海に入って深く仏恩を知れり、至徳を報謝せんが為に真宗の簡要をひろ((てへん)+「庶」という漢字[引用者註])ふて恒常に不可思議の徳海を称念す。弥斯(いよいよ)を喜愛し、特(こと)に斯を頂戴するなり(『教行信証』)
 親鸞聖人にとっては本願へのうなずきとしての信心を窮むることが焦点であって、臨終を通しての往生はその信心による必然であるというのであります。
煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚之数に入るなり。正定聚に住するが故に必ず滅度に至る(『教行信証』)
 信心決定のひとは、うたがひなければ正定聚に住することにて候なり。さればこそ愚ち(←「痴」-「知」+「疑」という漢字[引用者註])无智の人も、おはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし(『末灯鈔』)
 ところで、「念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にアづけしめはまふ」といわれるように、念仏をもうそうと思う心がおこるときもはや摂取不捨の利益の中にあるというのであります。すなわち、摂取不捨こそ「救い」ということだというのであります。「摂取」という教えは「摂受」という仏教の教えの展開であることをみましたが、「一一の光明遍くあまね(「彳」+「遍」-「之」という漢字[引用者註])く十方世界を照らし念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」といわれ、「仏心とは大慈悲是れなり、無縁の慈を以って諸の衆生を摂す」(『観無量寿経』)とありますように「摂取不捨」ということが強調されています。
 それでは摂取不捨の体験といいますか、実感とは何なのでしょうか。すなわち、救われるとはどうなることなのでしょうか。
金剛心を獲(う)る者は、すなはち韋提(いだい)と等しく喜悟信(きごしん)の忍(にん)を獲得すべし。是れすなはち往相廻向の真心徹到(てっとう)するが故に不可思議の本誓に籍るが故なり(『教行信証』)
といわれています。信心の人は、あの『観無量寿経』に説かれている韋提希の仏見と同じく喜、悟、信の三忍を得るというのであります。『正信偈』に「慶喜一念相應の後、韋提と等しく三忍を獲(え)、即ち法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証せしむ」とのべられているのと同じであります。三忍とは無生忍(くわしくは「無生滅法忍」といい、真如の妙理を体忍すること)を三つに開いて説かれたもので、喜忍、悟忍、信忍といわれるものであります。これは次のことを示しています。他力の信心をうると心に大いなる歓喜が生れるので「喜忍」(大歓喜を無生忍)、無智の過去から疑情に閉じられて仏智にくらかった者が今、名号のはたらきを信じて仏智に明らかになるので「悟忍」(仏智を悟った無生忍)、深く信じて疑いがない忍であるから「信忍」(深信無疑の忍)をうるというのであります。「忍」は「認」と同じで「認知」で、その本質は「智」であるというのであります。
 ここで思いあわせられることばは
真実の行信を獲れば、心に歓喜多きが故に、これを歓喜地と名く、行信に帰命すれば、摂取して捨てたまはず、故に阿弥陀と名く。これを他力といふ。(『教行信証』)
であります。「摂取不捨」、すなわち「救い」の体験、実感、あかしは、まさにこの「忍」にあるといってもよいと思います。
 そのことは、真宗の「救い」は、救済事業の「救済」でもなければ、いわゆる宗教(religion)でいわれる神への「悔い改め」ではないということであり、また、単なる「来世」への幻想的期待感ではありません。そこには、ほんとうの現実の自己がいいあてられ、そのものをこそ救うという本願の大地に立つ、新しい人間が誕生することをいうのであります。その内容は、ほんとうのよろこびと、ぐちといいわけにおわる無智からの解放と、なにものにもさまたげられない金剛の信心の立場に立つということをさし示していると思われます。
 このように「忍」ということによってさし示される新人の行者であればこそ
念仏者は无碍(むげ:「げ」=「碍」-「石」という漢字[引用者註])の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神(てんじん)・地祇(ちぎ)も敬伏(きょうぶく)し魔界・外道も障碍(「げ」=「碍」-「石」という漢字[引用者註])することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへなり(『歎異抄』)
といいきることのできる世界がひらかれるのであります。そこにほんとうの深いよろこびが内から湧きおこるのであります。
慈光はるかにかふらしめ ひたりのいたる
ところには 法喜をうとぞのべたまふ
大安慰を帰命せよ
(『浄土和讃』)
尽十方の无碍(←「碍」-「石」という漢字[引用者註])光は 无明のやみをてらしつゝ
一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ
(『高僧和讃』)
弥陀智願の廻向の 信楽まことにうるひとは
摂取不捨の利益ゆへ 等正覚にいたるなり
(『正像末和讃』)
(『救われるとはどうなることか』より56~62頁)




つづく



梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (3)[浄土建立の誓願]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (2)[般若・無分別智の意味][迷妄を喚び覚ますもの]の続きです。

七、浄土建立の誓願



(中略)

法蔵菩薩は、どのような本願を立てられたのですか。

その大きな特徴は浄土を建立して、そこへ人びとを生まれさせて、さとりを完成させようという誓願を立てられたということです。

なぜ浄土を建立しようとされたのですか。

煩悩に汚れたこの娑婆(しゃば)では、人びとにさとりを開かせることは極めて困難であるとお考えになったからです。

それをもう少し詳しく説明してください。

仏陀は、人びとが苦しむのは、自己中心の想念(愚痴)に惑わされて、自分に都合のいいものばかりを求め(貪欲)、自分に都合の悪いものを排除しようとする心(瞋恚)に振り回されながら生きているからであると仰せられました。そのような汚れた心のはたらきを煩悩(心身を煩わせ、悩ますもの)と呼んでいます。したがって煩悩さえ無くすれば、安らかなさとりの境地(涅槃)に至ることができると教えられていました。いわれてみれば確かにその通りです。事実、釈尊はその通りに煩悩を完全に制御して、さとりの境地に到達された方でした。
 もちろん貪欲・瞋恚・愚痴の三種は代表的な煩悩をあげただけで、実際には状況に応じて驕慢とか、疑惑とか、悪見など無数にあります。貪欲だけでも財産欲、名誉欲、食欲、色欲(性欲)、睡眠欲(なまけ心)という五欲があげられ、また何時までも生きていたいという自己保存欲と、自分の勢力圏を少しでも広げたいという自己拡張欲に分類することもできましょう。いずれにせよこうしたさまざまな欲望の充足を求めて生きているのが人間ですから、人間というのは、欲望が形を採っているようなものです。その我欲を妨げるものに対して起こすのが怒りであり憎しみですから、我欲に限りがないように瞋憎にも際限はありません。
 いいかえれば煩悩は単に心の問題というよりも、むしろ身体の問題であるというべきでしょう。自己保存の欲求と、自己拡散の欲望は、細胞のひとかけらにも備わっている機能なのです。我欲を無くすことは自分の存在それ自体を否定することに連なっていますから、無くすることはもちろん、完全にコントロールすることも至難の業であるといわねばなりません。そのような煩悩を断ち切ることができずに、むしろ煩悩を増長するような生活をしている者を煩悩具足の凡夫と呼んでいます。それはもう自分の力ではさとりを開く手がかりさえもない者でした。法蔵菩薩はそのような私どもを救うために浄土の建立を誓願されたのでした。

自分の力では煩悩を断ち切ることのできない者のために、浄土を建立されたといわれるのですか。

そうです。この娑婆世界で成仏しようとすれば、釈尊がそうされたように、出家し、無欲の生活を持続し、心身を浄化していかねばなりません。しかし、この世界は、自分の内にも、私をとり巻く環境にも、あまりにも悪縁が多く、修行を妨げる邪魔が多すぎます。せっかく必至の修行によって良いところまで進んでいても、ふとした悪縁に惑わされて転落し、元の凡夫に返ってしまう修行者がほとんどでした。
 法蔵菩薩は、そのような自分も環境も浄化するどころか、いつの間にか自分もまた人びとの悪縁に成り下がって、自他ともに迷いを重ねていく愚かな煩悩具足の凡夫をご覧になって、このような者を救うためには、全く悪縁のない、清浄無垢(しょうじょうむく)な世界に迎え入れるしかないと見通されたのでした。
 愛欲や憎悪を起こすような悪縁が全くないならば愛憎の煩悩も起こらないはずです。また如来の清浄無垢な智慧と慈悲の領域である浄土に至れば、自ずから大智大悲の徳に同化し、無明煩悩(むみょうぼんのう)は消滅し、さとりが完成していきます。
 そのことを曇鸞大師(どんらんだいし)は、行動するときには必ず曲がるのが蛇の性質ですが、真っ直ぐな筒に入れるならば、真っ直ぐになるようなものだと仰せられていました。また清らかな川の水も、濁った河の水も、ひとたび大海に流れ込めば、みな浄化されて、同じ一つの塩味に転換されます。そのように、如来の智慧を慈悲の徳を本体としている広大無辺な浄土に往生すれば、善人であれ、悪人であれ、知者であれ愚者であれ、分け隔てなく大智大悲の徳に転換されていくとも仰せられていました。
 こうして煩悩具足の凡夫を救うためには、悪縁が全くなく、往生した者の無明煩悩を浄化することのできるような智慧と慈悲を本体とした、広大無辺な清浄仏国を建立しようと法蔵菩薩は決心されたのでした。これを「浄仏国土、成就衆生」の誓願と呼んでいます。仏国土を浄化して(自利)、衆生の往生成仏を成就させよう(利他)とする願いだからです。
 こうして自分と他人との隔てを超えて、自他を一如と見きわめられた法蔵菩薩は、煩悩具足の凡夫の愚かしい心情や行動を他人事としてではなく、菩薩ご自身の痛みと感受し、ご自身の責任と感じて、「浄土建立」という壮大な誓願を発し、衆生救済に立ち上がられたのでした。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



つづく




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梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (1)

梯實圓和上の『親鸞聖人の教え・問答集』を購入しました。

全くの初めての人には難しく感じられるところもあるかもしれませんが、多少なりとも浄土真宗のご法義に触れたことのある人なら「こんなことが知りたい」と思っていた疑問に、鮮やかに答えてくれる問答集です。

経典の成り立ち、仏とは、浄土三部経と三願の関係、自力と他力、方便と真実、悪人正機、、、など、入門書として非常にありがたい本だと思います。

なかでも、ページの半分ほどを割いている「悪人正機ということ」の章は、有名な『歎異抄』の解説本と言っても良いかもしれません。誤って「造悪無碍の異安心」に陥る危険性を孕んだ『歎異抄』ですが、聖徳太子の善悪観、法然聖人・親鸞聖人の倫理観も詳説されています。

単なる古典や学問にとどまらす、現代を生きる仏の知慧としての「親鸞聖人の教え」が問答形式で平易に書かれていますので、おすすめの良書と言うことができるのではないでしょうか。

目次

【一】経典のこころ

  • 一、お経の意味
  • 二、経典の成立
  • 三、経典拝読の心得
  • 四、浄土三部教の選定
  • 五、三願と三経
  • 六、真実教としての『大経』
  • 七、『観経』の顕の義
  • 八、『観経』の隠彰
  • 九、『阿弥陀経』の隠顕
  • 十、覚如上人の三部経観


【二】阿弥陀仏の本願

  • 一、菩薩の誓願
  • 二、法蔵菩薩の出現
  • 三、法蔵という名のいわれ
  • 四、一如より形をあらわした菩薩
  • 五、般若・無分別智の意味
  • 六、迷妄を喚び覚ますもの
  • 七、浄土建立の誓願
  • 八、浄土往生の道を選択する
  • 九、五劫思惟の誓願
  • 十、親鸞一人がため
  • 十一、四十八願の分類
  • 十二、四十八願の中心
  • 十三、第十八願中心の本願観
  • 十四、第十八願の信心
  • 十五、「乃至十念」の称名
  • 十六、「五逆罪」について
  • 十七、「謗法」について
  • 十八、逆謗の除取について


【三】他力ということ

  • 一、自力・他力の誤解
  • 二、他力不思議
  • 三、曇鸞大師の自力・他力
  • 四、まことにその本を求むれば
  • 五、他利と利他
  • 六、他力の本質
  • 七、自力・他力の変遷
  • 八、浄土宗(鎮西浄土宗)の自力・他力説
  • 九、親鸞聖人の他力説と磁石の譬え
  • 十、他力は凡夫を変革する
  • 十一、正定聚の機


【四】悪人正機ということ

  • 一、『歎異抄』の第三条
  • 二、法然聖人の悪人正機説
  • 三、醍醐本『法然上人伝記』について
  • 四、智慧を極める教えと、愚痴に還る教え
  • 五、聖徳太子の善悪観
  • 六、仏教の善悪観
  • 七、『観経』に説かれた善行
  • 八、『観経』に説かれた悪行
  • 九、七仏通誡の偈
  • 十、法と機について
  • 十一、真実と方便
  • 十二、方便の教え
  • 十三、平等の救い
  • 十四、慈円の法然批判
  • 十五、『興福寺奏状』の論難
  • 十六、「大悲の自然」としての救済観
  • 十七、大悲は苦者の救いを目指す
  • 十八、阿闍世のために涅槃に入らず
  • 十九、悪人正機という言葉の発祥・『口伝鈔』
  • 二十、浄土宗各派の悪人正機説
  • 二十一、機の善悪と傍正
  • 二十二、悪人正機と二種深信
  • 二十三、善悪の二つ総じてもって存知ぜず
  • 二十四、絡み合う善悪
  • 二十五、法然聖人の倫理観
  • 二十六、親鸞聖人の倫理観
  • 二十七、少しずつ代わる念仏者の生き方




    つづく



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