★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年10月06日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
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【写真】Miwele, Lunatic Bthory, 森野王子, merrow, 藤澤彩菜 @四谷 LIVE INN MAGIC 2011.04.09
★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年07月05日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(5)
- 紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(1)
- 紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(2)
- 紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(3)
- 紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(4)
目次
1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
2.2 二 宗祖における宿善論
2.3 三 蓮如上人の宿善論
2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び
3 第二章 二種深信についての問題
3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
3.4 む す び
1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
2.2 二 宗祖における宿善論
2.3 三 蓮如上人の宿善論
2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び
3 第二章 二種深信についての問題
3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
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3.3 三 後生の一大事についての問題3.4 む す び
三 後生の一大事についての問題
以上述べて来たように、高森親鸞会は罪悪深重・地獄一定の自覚を強請するのであるが後生の一大事の自覚もまた強調するのである。即ち『顕正新聞』には後生の一大事とは何か、人間は必ず一度は死なねばならない、では人間は死んだらどうなるか。釈尊は必堕無間と四十五年間呼びつづけられた。「一切の人は死んだら必ず無間地獄におち八万劫年の間大苦悩をうけねばならない」これを後生の一大事という。(205号、昭和54・6・20)とあり、又『白道もゆ』(高森顕著)には仏法を聞く目的は後生の一大事の解決に極まる……一大事というのは取り返しのつかないことを言ふが、それは無間地獄へ堕在するということである。曽無一善、一生造悪が我々の実相であるから、因果の道理に順じて、必ず無間地獄へ堕ちる。これを経典には必堕無間と説かれている。(一三七頁)とあり、又『こんなことが知りたい①』には親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示された生死の一大事とはどんなことかといゝますと、これは後生の一大事といもいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです(六頁)等とあり、又『顕正新聞』に(会員松栄三喜男氏談)その時、初めて私も死んだら無間地獄しか行き場がないという後生の一大事を知らされ驚いたのです。……そしてその時会長先生は、この大宇宙が火の海原になっても聞き求め解決しなくてはならないのが後生の一大事であり、後生の一大事の解決唯一つが、仏教を聞く目的であり、一生の目的であるとハッキリ断言して下さいました。(第181号、昭和52・6・20)ともあるように、後生の一大事の自覚を強調し、「必ず無間地獄に堕ちる」ということを後生の一大事というのである。
宗祖の言葉には「後生」も「一大事」も見当らないようであるが、蓮如上人の『御文章』には人間はただゆめまぼろしのあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、後生こそ一大事なりとおもひて……(一の一〇、真聖全三の四一七)とあり、又されば人間のはかなき事は老少年不定のさかひなれば、誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申すべきものなり。(五の一六、真聖全五の五一三)等とある。蓮如上人が「後生」の依り所とした語句は恐らく『大経』下巻の雖一世勤苦須臾之間、後生無量寿仏国快楽無極。(真聖全一の三五)とある「後生」や『往生礼讃』前序の前念命終後念即生彼国、長時永劫常受無為法楽。(真聖全一の六五二)とある「後念即生」とあるのに依ったものと思われる。従って、後生とは元来は「往生浄土(極楽)」の意で使われていると考えられる。しかれば宗祖自身の言葉の上で窺えば、善鸞義絶の消息にみえるいかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして……(真聖全二の七二八)とある「往生極楽の大事」ということが、後生の一大事という意になると考えることが出来よう。尚、蓮如上人の『帖外御文章』には世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。(蓮如上人遺文、稲葉昌丸編、五〇三頁)とあり、後生を単に今生に対する意に用い「ながき世まで地獄におつる事」とあるところは、高森親鸞会の主張の根拠になるとも思はれるが、ここにも「後生は永生の楽果」とあるのであり、いずれにせよ主意とするところは「往生浄土(極楽)の大事」ということであろうと考えられる。
以上のことから考察して宗祖および蓮如上人の言葉の上から窺える「後生の一大事」ということは「往生浄土(極楽)の一大事」あるいはせいぜい「往生浄土(極楽)できるかどうかの一大事」という程の意味であり、高森親鸞会の主張するような「必ず無間地獄に堕ちる」ということを後生の一大事といっているのではないことは明らかであり、このことからも高森親鸞会は、地獄一定の自覚を強要する地獄秘事(信機秘事)の傾向の存するものとの非難はまぬがれないであろう。む す び
以上、高森親鸞会の主張の二種深信に関しての問題点を述べてきたが、抑も二種深信とは善導の『散善義』に深信と言うは、即ち是れ深信の心也。亦二種有り。一に者決定して深く自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二に者決定して深く彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂取して疑い無く慮り無く、彼の願力に乗じて定んで往生を得と信ず。(真聖全一の五三 四)とあるものである。宗祖は『愚禿鈔』にこの二種深信の文を引き、その後に今斯の深信は、他力至極の金剛心、一乗无上の真実信海也。(真聖全二の四六七)と述べているように、一者、二者とある二種の深信がそのまま他力至極の金剛心であると示し、二種の深信は他力金剛心(信心)の相を分けたものとしているのである。このことから従来、信機・信法は一具であり、二種は別々でもなければ前後でもない、二種一具の信といわれるのである
然るに上に述べて来たように、高森親鸞会の主張は、地獄秘事(信機秘事)の代表とされている江州光常寺の主張と同一ではないが、地獄一定と自覚したところで初めて法の救い(本願の救い)にあえると主張して、自己の罪悪性・地獄一定の自覚を強調するのであるから、二種深信は信機が前で信法が後という二心前後起的な主張であり、又、後生の一大事についても、宗祖や蓮如上人の意とは異なる「必ず無間地獄に堕ちる」ことがそれであると主張して地獄一定の自覚をすすめるのであるから、やはり、地獄秘事(信機秘事)、機敷き安心、信機募り安心、二心前後起等の異義に類するものといわねばならないであろう。



