【法話】阿弥陀様の一方的なお働きですので、私たちの構うことではないのです。 2012.01.14,15 築地本願寺

1月14~15日にかけて、本願寺築地別院にて長谷清寿師から聞かせて頂いたお話のまとめです。

常例布教 築地本願寺 2012.01.14,15




善知識というのは自分を教化して下さる指導者のことです。親鸞聖人様にとっての善知識は法然上人様でした。

京都で勉強していた時、私は落ちこぼれでした。布教の勉強をしているとき、毎日試験と実演の繰り返しでしたが、私は龍谷大学も何も出ていないので教学のことは全然分からなかった。それで毎回毎回試験に落ちて。これでもか、これでもか、というくらいに落とされました。優秀な子は「頑張ったら大丈夫だって。出来る、出来る。頑張れ、頑張れ」と、そういう言葉は沢山くれるのですが、若い子は記憶力もあって覚えるのも早いです。私は39歳の後半で行ったので簡単には覚えられないのです。みんなの倍は一生懸命部屋にこもって勉強しましたが、覚えられないものは覚えられない。そして試験は次から次へとすべる。落第、落第、落第の中で「なんで私こんなんなんでしょうね」と先輩に相談した時に、色々な答えが返ってきました。「努力が足らないからかな」とか「勉強を始めるのが遅かったのとは違うか」とか。その中、ある先輩、、、ですけど若い先生は、、、実はその先生、昨日聞きに来てくれていたのです。私がここで話をすると分かっていて。だから緊張してたどたどしくなってしまいましたが、その先生はこう言ってくれたのです。「試験に落ちるということは、まだまだ勉強ができるということじゃないですか。いいなぁ。僕はうらやましいと思いますよ」と。普通ならば努力が足りないとか頑張れ頑張れという叱咤激励が多いのですが、頑張れ頑張れと言われるほど、落ち込んで辛い時には、そんな残酷な言葉はありません。「こんだけ頑張ってしよるねん、もうどないせいっていうんよ。あんた答え教えてくれるんけ」と関西弁で不平不満を言っていましたが、その先生は「勉強が続けられるって、いいですねぇ。うらやましいです」言ってくれた。落ち込んでいる私を、うらやましいと言ってくれた。その言葉に、本当に救われる思いでした。この先生の言葉がなかったら私はあきらめて「もういいです」と言っていたかもしれない、多分そうなっていたと思います。お金もかかる、時間もかかる、子供を放ったらかしにして住職に迷惑かけて、、、京都に約100日泊まり込みで集団生活していますから、これだけ迷惑をかけているのだから、これだけやってもダメだったら無理だわ、と思っていた矢先にその先生は慰めて、、、慰めるというよりうらやましいと言ってくれた。「勉強が続けられるって、いいですねぇ」とニコニコして言ってくれた。その言葉は本当に私の心に残る、一生忘れることの出来ない喜びとなりました。その言葉のおかげで「もうここまで来たんだ。やっぱりもう一回やってみよう」と、何とか何とか、ゴールにたどり着くことが出来たのです。

自分の人生の中でひっくり返るほどの感動、言葉に出会うということは、善知識との出会いと言って良いと思います。私にとっての善知識は、もちろん両親を尊敬していますが、その若い先生でした。皆様も、人生の中でそういう善知識という人にであうことがあると思います。また、今までにであってこられた方もあると思います。それを大事にして頂きたいと思います。




(中略)




皆さんは、五木寛之さんはお好きですか?直木賞作家の。龍谷大学で学ばれたりして、作家ですが浄土真宗に帰依されている方ですね。あの五木寛之さんが私の娘の高校に講演に来られたことがあります。そのときこう言われていました。

人生というものは、暗く細い夜道を、重い荷物を背負って歩いているようなものだ。そういう先行き不安だらけの心細い道ではあるが、遠方にポッと明かりが見えたとする。そうしたら、それだけでホッとする。何も歩く道が縮まった訳でもなく、背負った荷物が軽くなった訳でもない。でも、その光を目指して行けば確実に民家にたどり着ける、と思ったらそれだけで安心できる。

と。で、その光こそが、阿弥陀如来の光である、と譬えておられました。ああ、やっぱりさすが、作家は違う、と思いました。

本当にそう思います。辛いこと、悲しいことばかりの中で、行き先に一つの光が見えるだけで、荷物が軽くなる訳でも道のりが短くなる訳でもないのですが、それでも安心する。仏教的な考え方だと思いました。

浄土真宗の教えは、苦しみや悲しみを軽くしたりとか、なくしてあげようという、まやかしの宗教ではありません。それを乗り越える力を与えて下さる、先を照らして下さる、人生の指標がきちんと定まって下さる、というのが阿弥陀様の教えなのです。

五木寛之さんのお話、非常に良かったです。




(中略)




天台の千日回峰業は非常に過酷な修行ですので、戦後から40数名しか成し遂げられた方はいないということです。たまに何年かに一人、大阿闍梨といって千日回峰業を成し遂げた方がテレビで放映されたりしますが、その阿闍梨様は言われたそうです。千日回峰業は煩悩を断つが為の行ですが「自分が千日回峰業を成し遂げられたのは仏典のおかげだ、自分の力ではない、と本当に心から思ったけれども、その後で恐ろしいことに、自分は他人が成し遂げられなかった偉業を成し遂げたという驕りの心が沸いてきた。人間の煩悩の深さを思い知らされたことでございます」と。死ぬほどの行をした後でも、やはり煩悩を断つことは出来なかったということです。

煩悩は絶対に断つことが出来ません。私たちが生きているそのものが煩悩なのです。

私たち、阿弥陀様を信じていても「目に見えなかったら不安」と思われる方は多いと思います。でも、阿弥陀様は目に見えるようなちっぽけな存在ではありません。目に見えるのは有限のものですが、阿弥陀様は無限のお方です。

こちら側がどれだけ一生懸命色々なことをしても、煩悩を断つことは出来ません。親鸞聖人は幼少の頃からから29歳まで天台におられて、でもやはり煩悩を断つことは出来なかったことに幻滅して比叡の山を降りられました。そこで、煩悩あるがままで救われるという浄土の教えにであって感動されるのです。だから
建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
と、自分が20年間死にものぐるいでやってきた修行を全部「雑行」と言い切って法然上人様の教えについて行く、「本願に帰す」と年号まで入れて著されているのです。そのことを思うと親鸞聖人様と法然上人様のであいは人生を根底からひっくり返す偉大なであいであったと言えると思います。

私たちが助かるのは、阿弥陀様に摂取していただいて仏様になるのです。自分の力では決して往生できません。

ここ(本堂)に、お木像として手を合わせる対象として阿弥陀如来様がおられます。私たちの方に前屈みで立って下さっています。それと、皆様のお家は絵で描かれた阿弥陀様ですか?後ろに48本の(あれは四十八願を表わしているのですが)後光が差している、奇麗な絵の中に阿弥陀様がいらっしゃることもあります。そしてまた「帰命無量寿如来」と文字で表わされていることもあります。また、今皆さんが言われたように、口から出たお念仏があります。その中でどれが一番尊いと思われますか?答えは、自分の口から今出たお念仏が一番尊いのです。お木像ももちろん尊いので粗末にしてはなりませんが、煩悩で汚れきった自分からでも口からお念仏が出て下さる、その南無阿弥陀仏のお念仏が一番尊いのです。そう考えると、この本堂の中はお慈悲の中ですが、お念仏が口から出るというのはどこででも阿弥陀様は一緒にいて下さるということなのです。

阿弥陀様の世界は悟りの世界、煩悩のない世界。この娑婆は「世間虚仮」と言われるように争いや醜いこと、辛いことばかり。この娑婆を此岸と言います。そして涅槃、煩悩のない世界を彼岸と言います。彼岸は(生きている私たちは)誰も往ったことがありません。しかし、阿弥陀様の一方的なお働きですので、その世界へ往けるか往けないかは、迷おうが迷うまいが、自分は大丈夫だろうかと不安に思う時もあってもそれは私たちの構うことではないのです。仏様は極楽浄土という素晴らしい世界を用意して下さっています。そこに往けるのは当然決まっているのですが、往って見て来た方はいらっしゃいません。でも、それを疑う心はいけません。ただ一心にたのむというのが大事なのです。

私たちは今娑婆世界に生きておりますけれども、次に生まれる世界はとんでもない素晴らしい世界だということを信じて欲しいと思います。




(中略)


常例布教 築地本願寺 2012.01.14,15



お念仏というのは、私たちが声を出しているのですが、届けて下さっているのは阿弥陀如来様です。もし、とんでもない恐ろしい時になったら「南無阿弥陀仏」ではなく「たすけてー」「怖いー」という言葉が出るのではないかと思います。穏やかに「南無阿弥陀仏」と言えるような状態になればそんなに有り難いことはないですが、身の危険が迫った時というのは、まず「逃げたい」「怖い」と思う気持ちの方が先だと思います。阿弥陀如来のお言葉が私の口から出て下さる時というのは、阿弥陀様が私との交流をして下さっている時だと思うのです。だから自然と本堂の中に来たらお念仏が出たり、そして悲しいこと辛いことがあっても、心が穏やかになるのはお念仏を称えた時ではないかと思います。それは、阿弥陀様のお働きが今の私に届いている瞬間なのです。そう思わせて頂くと、念仏を何万回、何千万回称えたところで、私が称えたことが積み上がるのではない、1回1回のお念仏が尊いのです。有り難いのです。

何回お参りしてもどうもピンと来ないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でもそれはそれで良いのです。その方がお寺に来られるとか手を合わせるという行動をとられた時点で、もう救いの中にあるのです。自分に疑問を持たれるのは大いに結構です。でも、阿弥陀様への疑問は一切タブーです。阿弥陀様の独り働きだから疑う必要がないのです。仏様の教えは真実だし、仏様のお救いは絶対です。そのかわり、私たちの行いや願おうとするまやかしの心は虚仮の世界です。ウソばかりです。臨終の一念まで煩悩は消えることがありません。

親鸞聖人様は20年修行をされましたが、煩悩は断てないことを心から領解された上で、お念仏一つで救われるという世界に入られたのです。その時の感動は嬉しかったと思います。だから、法然上人様の教えを信じて自分が殺されるようなことがあっても、地獄に堕ちるようなことがあっても、悔いはないと仰っています。それほどの方とであえるというのは幸せな方だと思います。

浄土真宗のお念仏は報恩感謝のお念仏で、お願いするお念仏ではありません。こちらからお願いしたら何か返って来るだろうと期待するじゃないですか。そんなギヴ・アンド・テイクのお念仏ではありません。ありがとうございます、よろしくお願いします、お任せいたしますのお念仏です。阿弥陀様の独り働きですから。

阿弥陀様のお力を大悲ということがあります。「大」が付く時は必ず阿弥陀様のことです。「愛」と「悲」とは違います。愛には憎しみが生まれてきます。でも大悲には慈しみの心しかないのです。阿弥陀様は煩悩にまみれた私たちを慈しむ心で照らして下さっているのです。それは目には決して映らない、そして私の力でどうこうしようともどうなるものでもない、阿弥陀様の方からすべてお見通しです。だから、悟りの世界に往きたいとか彼岸の世界がどうなるとか、そういうのはこちら側の言い分であって、阿弥陀様の世界はとんでもなく素晴らしい世界です。だからすべてをお任せするのです。

皆さん、カナヅチってご存知ですか?溺れる人というのは、ジタバタするから溺れるのだそうです。あれ「もう、どうでもいいや」と力抜くと浮くんです。これ不思議ですね。阿弥陀様の世界を「本願海」と海に譬えられることがあります。大きな海原というのは、力を抜いたら本当に穏やかに浮くのだそうです。ジタバタして何とかしようとすると、沈んでとんでもないことになるのです。それと同じで、こちらでジタバタしてもどうにもならないのです。阿弥陀様の懐に入ったらフワッと浮いたのと一緒です。

辛いこと、悲しいことはこれからあるかもしれないし、これまでにそういう経験をした方は沢山いると思います。でも、その一つ一つのことが全部阿弥陀様の救いの中にあったということを自覚して頂ければ「阿弥陀様のことは見えない」「阿弥陀様とはどんな方だろう」「自分は本当に大丈夫だろうか」というような疑問なんか吹っ飛んでしまう力があるのです。阿弥陀様の方からの力はとてつもない力です。自分で確かめることは出来ない、確かめることが出来るのは、皆様が仏様に成った時だけです。この娑婆の世界でどうだこうだと思うことは一切関係ありません。ただただ感謝、お念仏。そのお念仏も、阿弥陀様が我が口から出て下さるようになっている、いい仕組みがちゃんと整っているのです。浄土真宗の教えは決して行をするのではない、阿弥陀様が私たちに代わってして下さっているので、あなた達はもう何もすることはないよ、ただただ報恩感謝のお念仏を称えて私の元に戻って来いよ、というお浄土を整えて下さっているのです。



なにか質問ございませんか。なければ姫路の名物お教えしますよ。生姜醤油のおでん。私は姫路生まれの姫路育ち。地元を愛しています。故郷というのは良いものですね。生姜醤油にちょっと砂糖を落として食べるおでんは美味しいですよ。一味唐辛子を入れて食べる人もいます。だからおでんそのものは薄味です。


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中西智海 / 親鸞教学入門(8)

(7)の続きです。

如来

 ところで、この永遠の真実・法の動態、すなわち仏のあり方を示すのがまさに「如来」であると思うのであります。
 「如来」とはタターガタ(tathagata)の漢訳であります。このことばは tatha-gata と分解するか tatha-agata とみるかによって意味がちがうのであります。前者の場合は真如(実)に到達したものの意味となり、後者の場合は真如(実)より来ったもの、すなわち真如に従ってこの世に来ったものを意味します。漢訳の「如来」は「如より来生したもの」であり後者の意味を示しております。この「如来」こそ、仏のあり方をよくさし示しているといわねばなりません。真実は不真実を発見し、不真実を痛み、真実へとかえなすはたらきであります。そういう意味で真実はつねに不真実なものへ来るのであり、はたらくのであります。自我を中心としてしか生きられない私を根底から照破し、転じかえなすはたらきこそ、仏そのものであります。
 「永遠なる真実あり、されど我らに真実なし、拝めばわれらに真実あらわる」ということばを想いおこすことであります。そして「真実といふはすなはちこれ如来なり、如来はすなはちこれ真実なり」と説かれた意味をかみしめてみたいのであります。

阿弥陀如来

 この永遠なる真実・仏こそ「私」の命となり光となるのであります。命となるということは私の心身にほんとうのよろこびをもたらし、順境も逆境ものりこえてゆく生命力を湧きおこすものといってもよいでありましょう。ほんとうに私のいのちとなるもの――それはまことなるものであります。そこに仏は私のいのちとなるという世界があります。それは常識的なことばでいえば愛ということになるのでしょうが、仏教ではこれを慈悲というのであります。
 また、永遠なるまことが光となるというのは、私が行きづまったときに道を開くものであります。それは別のことばでいえば、人生のゆくえを知る智慧となります。またほんとうの未来をもつことができるということでありましょう。人間だけが未来をもつことのできる生きものであるともいわれます。そのことはたしかな未来をもたねば、生きるよろこびを感じない生きであるということでありましょう。このようにうけとめてみますと、命となり光なるまことがなければ生きてゆけない、死んでゆけないというのが「私」のいのちのしくみなのであります。
 この命かぎりなく光かぎりないものを阿弥陀如来というのであります。
 阿弥陀(Amita)の阿(A)はうちけしの言葉で「無」ということであり、弥陀(mita)は「量る」でありますから、量ることができない、すなわち「無量」であります。ですからそれは無限といわれ、限りなきものといわれるのであります。しかしこのことばの原語はアミターバ(Amitabha・無量光仏)・アミターユス(Amitayus・無量寿仏)すなわち無量覚者を意味することばであります。そうしてみれば阿弥陀とはひかり限りなくいのち量りなしということになるのであります。
 光といのちがなければ、すなわち、ほんとうの智慧と慈悲がなければ生きられなかったのはこの「私」であります。「私が生きてゆけなくなったのは食べものがないからではありません。着物がないからではありません。家がないからではありません。そうではなくて、私のこころの底をほんとうに知りつくすもの(智慧)、人生の底の底にうらぎらない愛(慈悲)が感じられないから生きてゆけなくなったのです。たった一つ気にかかることはただ一人の息子のことである……」という手記を残してこの世を去った一老人のことばは人間のいのちのしくみと現実を告白したものであります。このようないのちのどんぞこに来れるものこそ無量光仏、無量寿仏といわれる阿弥陀如来であったのであります。阿弥陀如来の体徳として四十八願のうち十二願(光明無量の願)・十三願(寿命無量の願)が示されていることをいまさらながら深くうけとめてみたいものであります。
 限りなき光は限りある闇を破るはたらきであります。光は人間の素顔を浮彫りにし、めざめをもたらすものであります。闇は光によって破られねばならないものであります。そのように衆生はもともと、縁起の光の前に破斥せられねばならない存在であります。阿弥陀は私のめざめと運命を共にする存在であります。それは自利(不取正覚)・利他(若不生者)の完成という仏教の基本路線の実践形態であるといわねばなりません。

久遠仏

 ところで、親鸞聖人は罪深く悪重い凡夫を、いつでも、どこでも、だれでもめざめさせることのできる阿弥陀如来は、完全なる存在でなければならないとうけとめられました。それは時間的にも、空間的にも完全な存在でなければなりません。もとより寿命無量がそのまま時間的完全性をあらわし、光明無量がそのまま空間的完全性をあらわすものでありますが、これを徹底され「久遠仏」の教えとして説かれたといわねばなりません。
 阿弥陀如来の成道について『無量寿経』や『阿弥陀経』には十劫の昔といわれています。(中略)
 ではなぜ、そのような久遠の如来を『無量寿経』や『阿弥陀経』に十劫と説かれて法蔵菩薩が阿弥陀仏に成ったと説かれなければならなかったのでしょうか。それは仏教の原則を示され、ここでもキリスト教の神の立場との相違を示したものといわねばなりません。すなわち、因果の法則は衆生の側のみではなく如来の救いの上でもうち消すことのできない原理であることを明らかにされたという重大な意味があるのです。

方便法身

 この救いの因果を具体的に示されたのが方便法身としての阿弥陀如来なのであります。
この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす、その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。この誓願のなかに、光明无量の本願、寿命无量の誓願を本としてあらはれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方无碍光如来となづけたてまつりたまへり(『唯信鈔文意』)
とのべられています。
 方便とは原語をウパーヤ(upaya)といい、「近ずく」「到達する」の意味で、名詞には「道」といわれる意味があり、その道をたよりとして真如に到らしめるという意味があるといわれます。
 このように親鸞聖人は、阿弥陀如来とはこの私を真如に到らしめるために法蔵比丘となり、久遠の真実を知らしめ、そこにいたらしめる方便法身であることを明らかに示されたのであります。
 このように永遠の真実は「私」のめざめをもたらすために如来し、果から因におりて(従果降因)はたらくいのちであることを徹底して説きあかしてくだされたのであります。
(『如来と私』より81~86頁)




つづく



高森顕徹 / 歎異抄をひらく

歎異抄をひらく
高森顕徹
歎異抄をひらく
著者とされている高森顕徹氏の出版物には、他にも『親鸞聖人の花びら』という書名のものがあります。
「歎異抄」「親鸞聖人」と聞くと、浄土真宗のご法義が書かれているように思いがちですが、これらは氏が会長を勤める「浄土真宗親鸞会」の教義徹底に使われている本、と言えると思います(といっても最近では「教義はどうでも良い」と、弁当事業や会館建設に力を入れているようですが)。

どういうことかというと、「浄土真宗親鸞会」の教義は、一見、親鸞聖人のお言葉によって成立しており、その論理体系をまとめた『聖典』も存在していますが、よく調べてみると、それは「捏造」「改竄」「断章取義」や誤解に満ちているというのです。

その結果、浄土真宗・他力本願の御法と異なるどころか、正反対のものとなっているならば注意が必要です。そういえば『高森顕徹 / 光に向かって100の花束』で、「向きが逆ではないか」と書きました。

断章取義については、会員との問答(聖教の読み方について): 飛雲を読むと、
親鸞会は、断章取義が徹底しています。聖教の一部分だけを取り出して、前後を無視するものです。
判りやすくいえば、

左へ行きなさい

と書かれてあれば、左へ行けということだと思えるのですが、前後をよく読んでみると、

「左へ行きなさい」という人がいるが、それでは遠回りだから右へ行きなさい

とあり、結局は右に行くことを勧められていることになります。
これが親鸞会には一杯あるのです。故意に断章取義をしている場合と、知らずに勘違いしている場合があります。伊藤康善師や大沼法竜師の著書に、たまたま引用してあった根拠を意味も判らずにパクリ損ない、両師の誤字がそのまま高森会長の著書に書いてあることも
あるそうです。

実際、親鸞聖人が勧められなかったことを勧め、勧められたことを軽んじていると受け止められるところがあり、藁人形論法(詭弁)によって他力念仏を説く人を批判し、自力修善を強調する姿勢が感じられるのが高森氏の特徴と言えるかもしれません。

最近ではそのカラクリを見破らせない為に、会で認められている以外の仏教書を読むことを禁じているとか、いないとか。

他にも、聖人が特定の人に言われたことをすべての人のことを言われたお言葉のように紹介したり、強引な解釈をしているところもあると聞きます。

具体的な、親鸞聖人と高森氏の違いについては、親鸞会の信心偽装・教義偽装の手口: 飛雲
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- – - – - – - – - – -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
とまとめられており、その後、
9.機の深信について
親鸞聖人 自力では出離できない
- – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ
の項目が追加されています。

これらはすべて、梯實圓氏の言葉を借りれば「自分だけではなく人びとの心の拠り所を破壊し、惑わせる」謗法と言えるかもしれません。


どうしてそう言えるのか、詳しいことは
飛雲
安心問答(浄土真宗の信心について)
真偽検証
元会員から見た浄土真宗親鸞会
親鸞会邪義を破る
などを参照すると理解できるのではないかと思います。


もし、本書を手にする人があれば、最低限この事実くらいは知っておいた方が良いだろうと思い、参考サイトを紹介させてもらいました。

最後に、蓮如上人風に書くと、「宿善の機においては左右なく之を許すべからざるものなり」ということになるのでしょうか。「正反対」ということにおいては、ことごとく徹底しているように思えてなりません。





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