ロンドンの思い出(19) – 出会い編(7) – 謎が解けた!

前回の続きです。

鍵の調子が悪いので、ホテルの従業員ザックが来てくれることになったのですが、すでに出発予定の数十分前です。

このまま昼になったら遅れてしまう、と不安な気持ちになりますが、待つより仕方ありません。

でも、せめてザックが来る前に使える鍵が手に入ったら安心できると思い、他の宿泊者に相談しようと6号室をノックしました。

「誰?」

美人のお姉さんが出て来たので少し緊張します。
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Filed under: ★紀行  タグ: , , , , , ,   charlie432 00:00  Comments (1)

googleアカウントがロックされたときの解除法

PCやiPhoneを変えて、最近しばしば起きるので、メモ。

Google Accounts


https://www.google.com/accounts/UnlockCaptcha?

例えば、すでにログインしているアカウント(gmail)に新たなデバイスで入ろうととするとこんな風に。正しいユーザー何とパスワードを入れているのに「"imap.gmail.com"用のユーザー名またはパスワードが間違っています」と。

(サンプル画像)
Google Accounts


アカウントの不正使用を防ぐためにセキュリティが強化されているのは良いですが、googleは画像認証の文字を読むのが難しくてよく間違えます(^_^;)

Filed under: ★科学、技術、PCなど  タグ: , , , , ,   charlie432 12:12  Comments (0)

中西智海 / 親鸞教学入門(7)

(6)の続きです。

ねがいと人格

(前略)
 さて、「生きる」ことにかかわる問題を大きく分けると二つの方向が考えられます。一つは生存・生活にかかわるも、いま一つは人間の実存にかかわるものであります。そして人間は普通、生存・生活の問題に埋没し、あけくれてしまいがちなのであります。しかし、人間が単に本能的に生きるとか、適応行動のみで満足するという生きものではなく、ほんとうに生きる、創造行動によって人生をきりひらいて生きることに意味を発見する生きものであってみれば、実存の問題こそ深くほりさげなければならない重要な課題であるといわねばなりません。生存・生活の問題はたしかに表面的で激しく大きいものでありましょう。しかし、そうだからといってそれがそのまま人間のほんとうの問題、根本の課題、究極のことがらであるということにはならないはずであります。まゆげのこげるような激しい問題の根っこに微かではあるが深く底しれない問題、すなわち生と死の問題があることをしらなければなりません。枝や葉はすぐわかりますが根は見えません。しかし、見えるから重大で、見えないからとるにたらないというものではありません。まして見えないから無いのではなく、見えない根こそ、もっともよく知らねばならないところであります。それこそ、「いのちあってのものだね」といわれるようにいのちがあってからの問題、「生」が前提になっている問題――政治・経済・芸術など――の根底に「生と死を貫通」する次元の問題、いのちあってからの問題ではなく、いのちそのものの問題、人生における問題ではなく、人生そのものの問題、外なる問題ではなく、内なる問題こそ、人間の究極の問題であることにめざめなければなりません。この「生・死」の問題、人間それ自体の「しくみ」をごまかさずにみすかすことをぬきにしたユートピアやヒューマニズムは結局、人間楽観主義や単純な人間肯定主義から出るうぬぼれに連なるものといわねばなりません。

本願の原意

(前略)
 実はこの人間の正体をつくつめ、本音をいいあて、人間そのものの問題をあからさまにし、人間のめざめを呼び起こすものこそ「如来の本願」と説かれることがらなのであります。
 「本願」の原語 purva-pranidhana は「前に置く」「約束」「必然性」の意味があるといわれています。
 すなわち、仏教で「本願」はもともと我執(自己中心性)が破斥せられていく限りない実践形態をいうのであります。つまり、衆生(sattva 生きとし生けるもの)は我執(自己中心性)が破斥せられねばならないように前から縁起の理の必然性の上におかれていることを意味し、そのような約束のうちにあることをいいあてられているということになるのであります。このようなあり方を自身の上に発見するとき、縁起の法の光の前におかれた私はいかに我執(自己中心性)から脱却できないものかが明らかになり、そのものにこそ、かけられなければならなかった如来の本願、誓願の強さに深くうなずくという構造を示すのであります。如来の本願の強烈さを「もののにぐるをおわえとるなり」とうけとめられた親鸞聖人こそ、この仏教の原理性とその実存的把握のピークをいいあてておられるといえましょう。

(中略)

親鸞聖人と本願

 経典によれば、如来の本願は十劫という遠い遠い過去において、すでに成就されていると説かれています。すなわち、如来の本願は想像を絶する遠い過去に出来上がっているのであると説かれているのであります。そのようなところから、本願のいわれは、物語であるといううけとめ方があったようであります。しかし、それは「昔々あるところに……」という昔話、またはお伽噺ではないのです。もし、単なる昔の物語やお伽噺であるならば、現にここに体温をもつ私とは「関係ない」ことになってしまい、ためいきをついて生きている現実の私とのかかわりは断たれて一つの子守歌となってしまいましょう。
 さて、親鸞聖人は「本願」をどのようにうけとめられたのでありましょうか。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(『歎異抄』)
 ここでは、「親鸞一人」に脈々とはたらく本願にうなずき、「それほどの業をもちける身」に「たすけんとおぼしめしたちける本願」をひしとうけとめられていることを告げられています。このことばは体温のぬくもりさえ感じさせます。およそ、「昔々あるところに……」などという発想を吹き飛ばして弥陀の眼前に現在した人のみがいえるおどろきが感じられます。それはなぜでしょうか。
 十劫の昔ととかれる如来の本願は単なる時間的過去ではなく、時間を超えているというべきでありましょう。そういう意味では、「どのような過去よりも過去である」ということになりましょう。であればこそ、弥陀の本願は歴史的時間の中にある親鸞聖人を弥陀の眼前に現在せしめ「親鸞一人がためなりけり」という「一人」のための本願成就として成り立つのであります。親鸞聖人には、自らが弥陀の本願という歴史的時間を超えた真実の前に現在することによってほんとうの意味で親鸞一人が誕生することができたというよろこびがありました。すなわち親鸞聖人の信心決定の時と本願成就の時は限りなく距っていながらそれでいて本願成就の「時」と信心決定の「今」とは同時であるというきわめて宗教的実存としてのできごとがはっきりしているといわねばなりません。虚妄の歴史と時の中にくちてゆかねばならない身において、滅びの時ではなくほんとうのめざめの時を成り立たしめたものこそ弥陀の本願でありまして、弥陀の本願とのめぐりあいこそ、ほんとうの親鸞を成り立たしめたできごとであったというのが親鸞聖人の本願のうけとめ方であります。もとより歴史を超えるといわれる本願とのめぐりあいは、歴史の中にたしかに伝えられた真実とのかかわりを無視して成り立つものではありません。それでこそ「遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」と慶ばれたのであります。
(『本願と私』より66~72頁)




つづく



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