中西智海 / 親鸞教学入門(8)

(7)の続きです。

如来

 ところで、この永遠の真実・法の動態、すなわち仏のあり方を示すのがまさに「如来」であると思うのであります。
 「如来」とはタターガタ(tathagata)の漢訳であります。このことばは tatha-gata と分解するか tatha-agata とみるかによって意味がちがうのであります。前者の場合は真如(実)に到達したものの意味となり、後者の場合は真如(実)より来ったもの、すなわち真如に従ってこの世に来ったものを意味します。漢訳の「如来」は「如より来生したもの」であり後者の意味を示しております。この「如来」こそ、仏のあり方をよくさし示しているといわねばなりません。真実は不真実を発見し、不真実を痛み、真実へとかえなすはたらきであります。そういう意味で真実はつねに不真実なものへ来るのであり、はたらくのであります。自我を中心としてしか生きられない私を根底から照破し、転じかえなすはたらきこそ、仏そのものであります。
 「永遠なる真実あり、されど我らに真実なし、拝めばわれらに真実あらわる」ということばを想いおこすことであります。そして「真実といふはすなはちこれ如来なり、如来はすなはちこれ真実なり」と説かれた意味をかみしめてみたいのであります。

阿弥陀如来

 この永遠なる真実・仏こそ「私」の命となり光となるのであります。命となるということは私の心身にほんとうのよろこびをもたらし、順境も逆境ものりこえてゆく生命力を湧きおこすものといってもよいでありましょう。ほんとうに私のいのちとなるもの――それはまことなるものであります。そこに仏は私のいのちとなるという世界があります。それは常識的なことばでいえば愛ということになるのでしょうが、仏教ではこれを慈悲というのであります。
 また、永遠なるまことが光となるというのは、私が行きづまったときに道を開くものであります。それは別のことばでいえば、人生のゆくえを知る智慧となります。またほんとうの未来をもつことができるということでありましょう。人間だけが未来をもつことのできる生きものであるともいわれます。そのことはたしかな未来をもたねば、生きるよろこびを感じない生きであるということでありましょう。このようにうけとめてみますと、命となり光なるまことがなければ生きてゆけない、死んでゆけないというのが「私」のいのちのしくみなのであります。
 この命かぎりなく光かぎりないものを阿弥陀如来というのであります。
 阿弥陀(Amita)の阿(A)はうちけしの言葉で「無」ということであり、弥陀(mita)は「量る」でありますから、量ることができない、すなわち「無量」であります。ですからそれは無限といわれ、限りなきものといわれるのであります。しかしこのことばの原語はアミターバ(Amitabha・無量光仏)・アミターユス(Amitayus・無量寿仏)すなわち無量覚者を意味することばであります。そうしてみれば阿弥陀とはひかり限りなくいのち量りなしということになるのであります。
 光といのちがなければ、すなわち、ほんとうの智慧と慈悲がなければ生きられなかったのはこの「私」であります。「私が生きてゆけなくなったのは食べものがないからではありません。着物がないからではありません。家がないからではありません。そうではなくて、私のこころの底をほんとうに知りつくすもの(智慧)、人生の底の底にうらぎらない愛(慈悲)が感じられないから生きてゆけなくなったのです。たった一つ気にかかることはただ一人の息子のことである……」という手記を残してこの世を去った一老人のことばは人間のいのちのしくみと現実を告白したものであります。このようないのちのどんぞこに来れるものこそ無量光仏、無量寿仏といわれる阿弥陀如来であったのであります。阿弥陀如来の体徳として四十八願のうち十二願(光明無量の願)・十三願(寿命無量の願)が示されていることをいまさらながら深くうけとめてみたいものであります。
 限りなき光は限りある闇を破るはたらきであります。光は人間の素顔を浮彫りにし、めざめをもたらすものであります。闇は光によって破られねばならないものであります。そのように衆生はもともと、縁起の光の前に破斥せられねばならない存在であります。阿弥陀は私のめざめと運命を共にする存在であります。それは自利(不取正覚)・利他(若不生者)の完成という仏教の基本路線の実践形態であるといわねばなりません。

久遠仏

 ところで、親鸞聖人は罪深く悪重い凡夫を、いつでも、どこでも、だれでもめざめさせることのできる阿弥陀如来は、完全なる存在でなければならないとうけとめられました。それは時間的にも、空間的にも完全な存在でなければなりません。もとより寿命無量がそのまま時間的完全性をあらわし、光明無量がそのまま空間的完全性をあらわすものでありますが、これを徹底され「久遠仏」の教えとして説かれたといわねばなりません。
 阿弥陀如来の成道について『無量寿経』や『阿弥陀経』には十劫の昔といわれています。(中略)
 ではなぜ、そのような久遠の如来を『無量寿経』や『阿弥陀経』に十劫と説かれて法蔵菩薩が阿弥陀仏に成ったと説かれなければならなかったのでしょうか。それは仏教の原則を示され、ここでもキリスト教の神の立場との相違を示したものといわねばなりません。すなわち、因果の法則は衆生の側のみではなく如来の救いの上でもうち消すことのできない原理であることを明らかにされたという重大な意味があるのです。

方便法身

 この救いの因果を具体的に示されたのが方便法身としての阿弥陀如来なのであります。
この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす、その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。この誓願のなかに、光明无量の本願、寿命无量の誓願を本としてあらはれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方无碍光如来となづけたてまつりたまへり(『唯信鈔文意』)
とのべられています。
 方便とは原語をウパーヤ(upaya)といい、「近ずく」「到達する」の意味で、名詞には「道」といわれる意味があり、その道をたよりとして真如に到らしめるという意味があるといわれます。
 このように親鸞聖人は、阿弥陀如来とはこの私を真如に到らしめるために法蔵比丘となり、久遠の真実を知らしめ、そこにいたらしめる方便法身であることを明らかに示されたのであります。
 このように永遠の真実は「私」のめざめをもたらすために如来し、果から因におりて(従果降因)はたらくいのちであることを徹底して説きあかしてくだされたのであります。
(『如来と私』より81~86頁)




つづく



高森顕徹 / 歎異抄をひらく

歎異抄をひらく
高森顕徹
歎異抄をひらく
著者とされている高森顕徹氏の出版物には、他にも『親鸞聖人の花びら』という書名のものがあります。
「歎異抄」「親鸞聖人」と聞くと、浄土真宗のご法義が書かれているように思いがちですが、これらは氏が会長を勤める「浄土真宗親鸞会」の教義徹底に使われている本、と言えると思います(といっても最近では「教義はどうでも良い」と、弁当事業や会館建設に力を入れているようですが)。

どういうことかというと、「浄土真宗親鸞会」の教義は、一見、親鸞聖人のお言葉によって成立しており、その論理体系をまとめた『聖典』も存在していますが、よく調べてみると、それは「捏造」「改竄」「断章取義」や誤解に満ちているというのです。

その結果、浄土真宗・他力本願の御法と異なるどころか、正反対のものとなっているならば注意が必要です。そういえば『高森顕徹 / 光に向かって100の花束』で、「向きが逆ではないか」と書きました。

断章取義については、会員との問答(聖教の読み方について): 飛雲を読むと、
親鸞会は、断章取義が徹底しています。聖教の一部分だけを取り出して、前後を無視するものです。
判りやすくいえば、

左へ行きなさい

と書かれてあれば、左へ行けということだと思えるのですが、前後をよく読んでみると、

「左へ行きなさい」という人がいるが、それでは遠回りだから右へ行きなさい

とあり、結局は右に行くことを勧められていることになります。
これが親鸞会には一杯あるのです。故意に断章取義をしている場合と、知らずに勘違いしている場合があります。伊藤康善師や大沼法竜師の著書に、たまたま引用してあった根拠を意味も判らずにパクリ損ない、両師の誤字がそのまま高森会長の著書に書いてあることも
あるそうです。

実際、親鸞聖人が勧められなかったことを勧め、勧められたことを軽んじていると受け止められるところがあり、藁人形論法(詭弁)によって他力念仏を説く人を批判し、自力修善を強調する姿勢が感じられるのが高森氏の特徴と言えるかもしれません。

最近ではそのカラクリを見破らせない為に、会で認められている以外の仏教書を読むことを禁じているとか、いないとか。

他にも、聖人が特定の人に言われたことをすべての人のことを言われたお言葉のように紹介したり、強引な解釈をしているところもあると聞きます。

具体的な、親鸞聖人と高森氏の違いについては、親鸞会の信心偽装・教義偽装の手口: 飛雲
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- – - – - – - – - – -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 自力

6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
とまとめられており、その後、
9.機の深信について
親鸞聖人 自力では出離できない
- – - – - – - – - – - – - – - – - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – - – -
高森会長 善知識に無条件服従せよ
の項目が追加されています。

これらはすべて、梯實圓氏の言葉を借りれば「自分だけではなく人びとの心の拠り所を破壊し、惑わせる」謗法と言えるかもしれません。


どうしてそう言えるのか、詳しいことは
飛雲
安心問答(浄土真宗の信心について)
真偽検証
元会員から見た浄土真宗親鸞会
親鸞会邪義を破る
などを参照すると理解できるのではないかと思います。


もし、本書を手にする人があれば、最低限この事実くらいは知っておいた方が良いだろうと思い、参考サイトを紹介させてもらいました。

最後に、蓮如上人風に書くと、「宿善の機においては左右なく之を許すべからざるものなり」ということになるのでしょうか。「正反対」ということにおいては、ことごとく徹底しているように思えてなりません。





梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (14)[「逆謗の除取について]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (13)[「謗法」について]の続きです。

十八、逆謗の除取について

確かに『大経』の第十八願には、五逆罪を造り、正法を誹謗した者は、往生させないと説かれていますが、同じ阿弥陀仏の救いを説かれた『観経』の下品下生のところには、五逆罪を造った極悪非道の者も、臨終に慚愧し、わずか十念、念仏したことによって、極楽に迎え取られたと説かれています。同じ「浄土三部経」の中で、違ったことが説かれているのはなぜですか。

確かに一見すれば矛盾しているように見えます。そしてこの二経を合わせてみますと、『大経』の第十八願では救われないと説かれた五逆と謗法の中、五逆罪を犯した者が、念仏によって救われたというのがまことならば、謗法の者も念仏すれば救われるのか。それとも謗法の者は絶対に救われないのか。あるいは謗法と五逆を重ねて造った者も念仏によって救われるのか、もし救われるのならば、どうして本願に救われないと説かれたのか。さまざまな難問が出てきます。それについて、とくに曇鸞大師や善導大師が詳しい解釈を施されていますが、ここではそれらの解釈をふまえながら、独自の領解を展開された親鸞聖人の『尊号真像銘文』のお言葉をはいどくいたします。
『唯除五逆誹謗正法』といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
(『註釈版聖典』644頁)
というのです。
 初めに「唯除」といわれたのは「ただ除く」という言葉です。それは如来は五逆の罪を犯すことを嫌い、しりぞけられていることを知らせ、また正法を謗って自他ともに迷いを重ねていくことがどれほど大きな罪であるかということを思い知らせようとされた言葉です。それによって、罪を犯している者に、自分が極重の罪を犯していることを思い知らせ、深い慚愧(法に背いている自分を恥じる心)を起こさせようとされているのです。
 こうして法に背いている人を正法を受け容れる人に転換させ、念仏する者に育て導くことによって、すべての人を一人も漏れなく浄土に生れさせようとされている仏の巧みな教化のみ言葉であるというのです。いいかえれば「除外する」という言葉に酔って、一人も漏れなく摂取し、救っていこうとされる大悲の表われであるというのです。



「除く」という言葉で「摂取」を表わすといわれた意味を、もう少し詳しく説明してください。

罪を罪と信知し、悪を悪と認めたということは、それを悪とし、罪としている法の体系、ここでは第十八願の方を真実と受け容れ、認めている証拠です。その意味で、自らの悪を認めて慚愧している人は、法の中に包摂されている人であり、法にかなった人に転換されたというべきです。医者が病人を救うというのは、病気をそのまま放置することではなく、病を癒し、正常に返すことです。そのように、逆悪を犯して慚じないような極悪の者に、まず罪の意識を持たせ、如来を真実と仰ぐ新しい精神の秩序を与えて転換させることを本願他力の救いというのです。その具体的な内容に着いては後に詳しく述べます。
 その五逆・謗法が、極重の悪であることを知らせる言葉が「除く」という厳しい言葉であり、それを聞いて深い慚愧を生じた人は、疑いをまじえずに仏陀の教えを真実と受け容れているですから、本願を信じ、念仏を申す信心の行者に転換されて救われて摂取されていくのです。それが『無量寿経』をはじめとする浄土三部経が、私どもに告げ知らせようとしている救いの内容だったのです。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




Filed under: ★仏教  タグ: , , , , , , , , , , , , , ,   charlie432 00:00  Comments (0)
    2012年5月
    « 4月    
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031