★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2012年04月22日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
中西智海 / 親鸞教学入門(8)
(7)の続きです。
つづく
如来
ところで、この永遠の真実・法の動態、すなわち仏のあり方を示すのがまさに「如来」であると思うのであります。
「如来」とはタターガタ(tathagata)の漢訳であります。このことばは tatha-gata と分解するか tatha-agata とみるかによって意味がちがうのであります。前者の場合は真如(実)に到達したものの意味となり、後者の場合は真如(実)より来ったもの、すなわち真如に従ってこの世に来ったものを意味します。漢訳の「如来」は「如より来生したもの」であり後者の意味を示しております。この「如来」こそ、仏のあり方をよくさし示しているといわねばなりません。真実は不真実を発見し、不真実を痛み、真実へとかえなすはたらきであります。そういう意味で真実はつねに不真実なものへ来るのであり、はたらくのであります。自我を中心としてしか生きられない私を根底から照破し、転じかえなすはたらきこそ、仏そのものであります。
「永遠なる真実あり、されど我らに真実なし、拝めばわれらに真実あらわる」ということばを想いおこすことであります。そして「真実といふはすなはちこれ如来なり、如来はすなはちこれ真実なり」と説かれた意味をかみしめてみたいのであります。阿弥陀如来
この永遠なる真実・仏こそ「私」の命となり光となるのであります。命となるということは私の心身にほんとうのよろこびをもたらし、順境も逆境ものりこえてゆく生命力を湧きおこすものといってもよいでありましょう。ほんとうに私のいのちとなるもの――それはまことなるものであります。そこに仏は私のいのちとなるという世界があります。それは常識的なことばでいえば愛ということになるのでしょうが、仏教ではこれを慈悲というのであります。
また、永遠なるまことが光となるというのは、私が行きづまったときに道を開くものであります。それは別のことばでいえば、人生のゆくえを知る智慧となります。またほんとうの未来をもつことができるということでありましょう。人間だけが未来をもつことのできる生きものであるともいわれます。そのことはたしかな未来をもたねば、生きるよろこびを感じない生きであるということでありましょう。このようにうけとめてみますと、命となり光なるまことがなければ生きてゆけない、死んでゆけないというのが「私」のいのちのしくみなのであります。
この命かぎりなく光かぎりないものを阿弥陀如来というのであります。
阿弥陀(Amita)の阿(A)はうちけしの言葉で「無」ということであり、弥陀(mita)は「量る」でありますから、量ることができない、すなわち「無量」であります。ですからそれは無限といわれ、限りなきものといわれるのであります。しかしこのことばの原語はアミターバ(Amitabha・無量光仏)・アミターユス(Amitayus・無量寿仏)すなわち無量覚者を意味することばであります。そうしてみれば阿弥陀とはひかり限りなくいのち量りなしということになるのであります。
光といのちがなければ、すなわち、ほんとうの智慧と慈悲がなければ生きられなかったのはこの「私」であります。「私が生きてゆけなくなったのは食べものがないからではありません。着物がないからではありません。家がないからではありません。そうではなくて、私のこころの底をほんとうに知りつくすもの(智慧)、人生の底の底にうらぎらない愛(慈悲)が感じられないから生きてゆけなくなったのです。たった一つ気にかかることはただ一人の息子のことである……」という手記を残してこの世を去った一老人のことばは人間のいのちのしくみと現実を告白したものであります。このようないのちのどんぞこに来れるものこそ無量光仏、無量寿仏といわれる阿弥陀如来であったのであります。阿弥陀如来の体徳として四十八願のうち十二願(光明無量の願)・十三願(寿命無量の願)が示されていることをいまさらながら深くうけとめてみたいものであります。
限りなき光は限りある闇を破るはたらきであります。光は人間の素顔を浮彫りにし、めざめをもたらすものであります。闇は光によって破られねばならないものであります。そのように衆生はもともと、縁起の光の前に破斥せられねばならない存在であります。阿弥陀は私のめざめと運命を共にする存在であります。それは自利(不取正覚)・利他(若不生者)の完成という仏教の基本路線の実践形態であるといわねばなりません。久遠仏
ところで、親鸞聖人は罪深く悪重い凡夫を、いつでも、どこでも、だれでもめざめさせることのできる阿弥陀如来は、完全なる存在でなければならないとうけとめられました。それは時間的にも、空間的にも完全な存在でなければなりません。もとより寿命無量がそのまま時間的完全性をあらわし、光明無量がそのまま空間的完全性をあらわすものでありますが、これを徹底され「久遠仏」の教えとして説かれたといわねばなりません。
阿弥陀如来の成道について『無量寿経』や『阿弥陀経』には十劫の昔といわれています。(中略)
ではなぜ、そのような久遠の如来を『無量寿経』や『阿弥陀経』に十劫と説かれて法蔵菩薩が阿弥陀仏に成ったと説かれなければならなかったのでしょうか。それは仏教の原則を示され、ここでもキリスト教の神の立場との相違を示したものといわねばなりません。すなわち、因果の法則は衆生の側のみではなく如来の救いの上でもうち消すことのできない原理であることを明らかにされたという重大な意味があるのです。方便法身
この救いの因果を具体的に示されたのが方便法身としての阿弥陀如来なのであります。この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす、その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。この誓願のなかに、光明无量の本願、寿命无量の誓願を本としてあらはれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方无碍光如来となづけたてまつりたまへり(『唯信鈔文意』)とのべられています。
方便とは原語をウパーヤ(upaya)といい、「近ずく」「到達する」の意味で、名詞には「道」といわれる意味があり、その道をたよりとして真如に到らしめるという意味があるといわれます。
このように親鸞聖人は、阿弥陀如来とはこの私を真如に到らしめるために法蔵比丘となり、久遠の真実を知らしめ、そこにいたらしめる方便法身であることを明らかに示されたのであります。
このように永遠の真実は「私」のめざめをもたらすために如来し、果から因におりて(従果降因)はたらくいのちであることを徹底して説きあかしてくだされたのであります。(『如来と私』より81~86頁)
つづく






