梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (10)[第十八願の信心]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (9)[第十八願中心の本願観]の続きです。

十四、第十八願の信心

その中で「至心信楽して、わが国に生れんと欲へ(至心信楽欲生我国)」とは、どういう意味を表わされているのですか。

法然聖人は、本願の三心について詳しい釈はなされていませんので、親鸞聖人の三心(信)釈を紹介します。親鸞聖人は、これは一つの信心を、至心・信楽・欲生という三心(三信)に開いて表わされたもので、それによって、如来さまから与えられた他力の信心の内容を詳しく示されたものであると言われています。



それをわかりやすく説明してください。

まず至心というのは、嘘・詐りのない真実心のことです。次に信楽とは、信心のことであって、阿弥陀仏の本願まことと疑いなく聞き受けている無疑心のことです。欲生とは、必ず浄土へ往生することができると期待している心のことです。



至心が真実心であるというのは、どんな心をいうのですか。

至心を真実心といわれたのは善導大師の至誠心釈によられたものです。至誠とは究極の「まこと」心のことであるといわれた解釈によったものです。しかし普通ならば自分の起こした信心に、嘘も詐りもないことを真実心というのですが、親鸞聖人は、第十八願の至心、すなわち真実心とは、私どもを救って浄土へ生まれさせようと願っておられる阿弥陀仏の本願のお心に嘘も詐りもないことをいうと言われています。たとえば『尊号真像銘文』に
「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
(『註釈版聖典』643頁)
といわれています。私どもは、いつも自分中心の見方をし、愛と憎しみに濁った煩悩を起こし続けています。ですから清らかなさとりの領域である浄土にふさわしい清浄真実な心はもっていませんし、これからも起こすことはできません。それゆえ本願に「至心信楽せよ」といわれたのは、私どもに「真実心を起こして信楽しなさい」といわれたのではなくて、「阿弥陀仏の真実なる本願を疑いをまじえずに受け容れなさい」といわれた言葉であると領解されたのです。



それでは次の「至心信楽せよ」というのは「如来の至心を信楽せよ」といわれているというのですか。

その通りです。ですから、信楽とは、如来様の本願のみ言葉に嘘も詐りもないと疑いなく受け容れている状態をいうのです。それで信楽を釈して、
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、はなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
『同上』
といわれたのです。すなわち十方世界の生きとし生けるすべてのものに向かって、私の誓願には、嘘も詐りもないから、この言葉の通り疑いなく受け容れなさいとお勧めになっているのが「至心信楽」という言葉であるというのです。ですから凡夫に自力で真実な信心を起こせと勧められた言葉ではないといわれるのです。
 このように味わえば「信楽」は凡夫が自力で起こす信心ではなくて、私を救おうと願っておられる如来の真実心(まことの親心)が私に届いて私の疑い心を除いてくださった心であるということがわかりましょう。



次に「欲生」とは、どういう心ですか。

「欲生」とは、「わが国に生まれんとおもへ(欲生我国)」を略した言葉です。それは阿弥陀仏の真実なる本願の仰せの内容です。すなわち自分の人生の行方を見定めることができないで迷っている私に向かって「安楽浄土へ生まれることができると思いなさい」と慈愛をこめて呼びかけてくださる言葉です。そのことを聖人は『教行信文類』「信文類」の欲生釈の初めに、
次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
(『同上』241頁)
と仰せられたのでした。すなわち「必ず浄土へ生れさせる」と喚(よ)んでいてくださる真実なる本願(至心)のみ言葉を聞いて、その仰せを「まこと」と疑いなく受け容れた(信楽)とき、そこには「必ず、往生させていただける」(欲生)という思いが私に恵まれてきます。それを「欲生心」とも願生心ともいうのです。それを『尊号心像銘文』には、
浄土に生れんとおもへとなり。
(『同上』643頁)
といわれたのでした。
 このように見ていきますと、三心といっても、必ず浄土に往生させて涅槃のさとりを完成させると仰せられる「まごころ」のこもった本願招喚(招き喚び続ける)の勅命を、仰せの通りに疑いをまじえずに聞き受けている信楽のほかにはないことがわかります。
 すなわち本願の真実(至心)のみ言葉を、疑いなく聞き受けている(信楽)ところに、往生一定と浄土を期するこころ(欲生)が自然に具わっているわけです。これを親鸞聖人は、如来よりたまわった「三信即一の信楽(信心)」と言われたのでした。そしてそのような本体は仏心(仏智)である信心が恵まれたときに、往生し、成仏する因が完成しますから、「信心正因」と言われるのです。それを信心が決定したとき、現生(現在の生存中)において、すでに仏になることが決定した正定聚の位に入れしめられているとも言われたのでした。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (9)[第十八願中心の本願観]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (8)[四十八願の中心]の続きです。

十三、第十八願中心の本願観

四十八願の中心が第十八願であると最初に言われた方は誰ですか。

さかのぼれば中国の曇鸞大師(476~542)や、道綽禅師(562~645)も言われていましたが、特にはっきりと仰せられたのは、善導大師(613~681)でした。それを承けて徹底していかれたのが法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。



善導大師はどのように言われていたのですか。

『観経疏』「玄義分」に、阿弥陀仏が報身仏であり、その浄土がさとりの領域である報土であることを証明するのに、『大経』の本願を引いて、
『無量寿経』にのたまわく、「法蔵比丘、世饒王仏(せにょうおうぶつ)の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。いますでに成仏したまへり。すなはちこれ酬因の身なり。
(『註釈版聖典・七祖篇』316頁)
と言われています。



そのこころを簡単に説明してください。

『大無量寿経』によれば、阿弥陀仏が、まだ法蔵菩薩と名告る修行者であったとき、四十八願を発されたが、その一々の願に、「もし私が仏陀になり得たとしても、十方の衆生の中で、わずか十声であっても私の名号を称えて私の国へ生まれたいと願っているのに、もし生まれることができないようなことがあるならば、私は仏陀にはなりません」とお誓いになり、その誓願を完成して阿弥陀仏となられた仏陀です。このように本願の因に報いて完成された仏陀ですから阿弥陀仏は明らかに報身仏であり、その浄土もこの本願に報いて完成された領域ですから報土であるといわねばならないというのです。こうして凡夫が往生できる阿弥陀仏の浄土は、程度の低い応身、応土にすぎないといわれていた通説を破って阿弥陀仏の報身、報土説を確立していかれたのでした。
 そればかりか同時に、報身仏、報土といわれる高度なさとりの領域であるならば、すでにさとりを開いた大菩薩だけが、その智慧の程度に応じて往生し、感得できるだけで、凡夫は決して往生できないという通説を破って、凡夫が直ちに往生できる報土であるということを証明していかれたのでした。



そのようなことがどうして言えるのですか。

阿弥陀仏は「わずか十声であっても私の名号を称えて私の国へ生まれたいと願っている者を、もし生れさせることができないようならば、私は仏陀にはなりません」とお誓いになり、その誓願を完成して阿弥陀仏となられた仏陀です。それゆえ、本願の因に報いてなられた仏であり、浄土であるという論理で、報身、報土説を証明されたことは、同時にその阿弥陀仏は、わずかに十声の念仏しかできない煩悩具足の凡夫であっても、本願によって成就した報土へ往生させる本願力を完成されていることを証明していることになるからです。
 こうして、本来ならば、すでにさとりの境地に到達している大菩薩でなければ往生できない報土へ、念仏往生を誓われた第十八願を信じ、念仏する者は、どれほど煩悩が深重であっても、その本願力に乗じて、往生させていただけると論証されたのでした。これを善導大師の凡夫入報説と呼んでおります。



しかしそれが、第十八願に他の四十七を収めているとはどうして言えるのですか。

そこに、「一々の願にのたまはく」といって、第十八願の念仏往生の誓願をあげられているからです。四十八願といっても、第十八の念仏往生のこころをひろげて説明しているだけで、開けば四十八願になりますが、収約すれば、第十八願の一願に帰すると見られていたことがわかるからです。
 その心を承けて法然聖人は、『選択集』特留章に「念仏往生の願をもって本願中の王となすなり」と言い、阿弥陀仏の本願は、第十八願の念仏往生の法義のほかにないと言い切っていかれたのでした。



法然聖人や親鸞聖人は、第十八願をどのように味わわれたのですか。

第十八願はこの本願を信じて、念仏する者を、必ず浄土に往生させるということを、次のような言葉で誓願されています。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗せんとをば除く
というのです。



それを現代語に訳すれば、どのようになりますか。

「たとえ私が仏陀になることができたとしても、もし十方の世界の衆生が、この本願には嘘も詐りもないと、疑いなく信じ、私の国に生まれることができると思って、わずか十声であっても私の名を称える者は、必ず往生させましょう、もし往生させることができないならば、私は決して仏陀の位には登りません。ただし、五逆の罪を犯して反省もせず、正法を謗って恥じないような者は除きます」というのです。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (8)[四十八願の中心]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (7)[四十八願の分類]の続きです。

十二、四十八願の中心

四十八願には、さまざまなことが誓われていることはわかりましたが、その中で一番大切な中心の願は、どれですか。

四十八願は、ただ雑然と誓われているのではなくて、一つの核となる誓願を中心にして展開していると見られていますが、それが第十八願であると見られたのが善導大師であり、法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。いわゆる浄土門の祖師方でした。しかし自力聖道門の学僧たちは、そのようにはご覧になりませんでした。



自力聖道門の人たちは、四十八願をどのようにご覧になっていたのですか。

今から千年あまり前、平安時代の中期に、比叡山延暦寺に慈恵大師良源(913~985)という高僧が出られました。この方は、比叡山天台宗の中興の祖師と仰がれている方です。実はこの方は浄土真宗の七高僧の中の第六祖にあたる源信僧都(942~1017)のお師匠さまにあたる方で、『極楽浄土九品往生義』という書物を著されています。『観無量寿経』の九品段の解説書なのですが、その中に四十八願の説明がしてあります。そこに四十八願の中で一番大事なのは第十八願ではなくて第十九願であるといわれています。
 先ほども申しましたが、衆生の往生の因を誓われた願に、第十八願と第十九願と第二十願の三願があります。それはこの三願に限って、このような行いをし、このような信心を発して浄土を願う者を往生させると誓われているからです。この三願の中で阿弥陀仏の本意にかなった修行と信心を往生の因として誓願されているのは、第十九願であるといわれています。
 大師は、この願を「行者命終現前導生(行者が命終するとき阿弥陀仏が眼前に現れて浄土へ導き往生させる)の願」と名づけています。それは第十九願には、十方の衆生の中で、まず菩提心を発して、もろもろの功徳を修行し、浄土に生まれたいと、まごころをこめて願う人の臨終には、阿弥陀仏自らが、観世音菩薩や大勢至菩薩をはじめとする多くの聖衆を引き連れて、迎えに行ってあげようと誓われているからです。それは自分のさとりの完成を目指すばかりでなく、一切の衆生を救済しようという崇高な菩提心(求道心)を発して、自力の限りを尽くしてさまざまな功徳を積み、浄土にふさわしい上善人になって、浄土へ生まれたいと願っている人ですから、阿弥陀仏のご本願にかなった人であるというのです。
 だからこそ阿弥陀仏はその業績を評価して、多くの聖衆を伴ってその人の臨終にわざわざ迎えに行ってあげようと誓われているというのです。阿弥陀如来が自ら聖衆を引き連れて迎えに行くといわれているのは、阿弥陀如来のご本意にかなっている証拠であるというのです。それゆえ阿弥陀如来のご本意にかなった生き方をしようと思う者は、まず出家して菩提心を発し、力の限りを尽くして修行にいそしみ、臨終の来迎を祈りなさいと大師は仰っているのです。
 また大師は、第十八願は、五逆罪とか正法を誹謗するというような極重の罪を犯していない凡夫で、阿弥陀仏を深く信じて浄土へ生まれたいという願いを発し、余念をまじえず心を集中して阿弥陀仏の名号を称え、十念を完成した者は往生させると誓われた願であると見ています。それで、第十八願を「聞名信楽十念定生(名号を聞いて信楽し、十念する者は定めて往生させる)の願」と名づけています。それは第十九願に誓われた人よりも功徳が劣っていますから、阿弥陀仏自らの来迎は誓われていないというのです。いいかえれば、浄土へは往生させてあげるが、阿弥陀如来がわざわざ迎えに来るような値打ちのない功徳の劣った者の往生を誓った願と見られていました。ですから、第十八願の者が浄土で受ける果報は、第十九願の人に比べたら、劣った果報でしかないというのです。
 なお第二十願は、念仏や諸善を修行しているが、その功徳が劣弱で、次の生(順次生)では往生できない場合には、次の次の生(順後生)では往生させるという三生果遂を誓った願であると見られていました。自力聖道門の人びとが『無量寿経』を読まれたときは、だいたいこのようにご覧になっていました。
 こうした聖道門の方々の本願観に対して、それは自力聖道門の教典を解釈するときの考え方を、他力浄土門を説く教典である『大無量寿経』に適用した誤った解釈であると否定していかれたのが法然聖人であり、親鸞聖人だったのです。そして他力浄土の法門を明かした『大無量寿経』の四十八願は、第十八願を軸として説かれており、開けば四十八願であるが、合すれば「本願中の王」である第十八願に帰すると言われたのが法然聖人だったのです。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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