★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2012年04月18日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (10)[第十八願の信心]
梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (9)[第十八願中心の本願観]の続きです。
(つづく)
十四、第十八願の信心
Qその中で「至心信楽して、わが国に生れんと欲へ(至心信楽欲生我国)」とは、どういう意味を表わされているのですか。
A法然聖人は、本願の三心について詳しい釈はなされていませんので、親鸞聖人の三心(信)釈を紹介します。親鸞聖人は、これは一つの信心を、至心・信楽・欲生という三心(三信)に開いて表わされたもので、それによって、如来さまから与えられた他力の信心の内容を詳しく示されたものであると言われています。
Qそれをわかりやすく説明してください。
Aまず至心というのは、嘘・詐りのない真実心のことです。次に信楽とは、信心のことであって、阿弥陀仏の本願まことと疑いなく聞き受けている無疑心のことです。欲生とは、必ず浄土へ往生することができると期待している心のことです。
Q至心が真実心であるというのは、どんな心をいうのですか。
A至心を真実心といわれたのは善導大師の至誠心釈によられたものです。至誠とは究極の「まこと」心のことであるといわれた解釈によったものです。しかし普通ならば自分の起こした信心に、嘘も詐りもないことを真実心というのですが、親鸞聖人は、第十八願の至心、すなわち真実心とは、私どもを救って浄土へ生まれさせようと願っておられる阿弥陀仏の本願のお心に嘘も詐りもないことをいうと言われています。たとえば『尊号真像銘文』に「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。といわれています。私どもは、いつも自分中心の見方をし、愛と憎しみに濁った煩悩を起こし続けています。ですから清らかなさとりの領域である浄土にふさわしい清浄真実な心はもっていませんし、これからも起こすことはできません。それゆえ本願に「至心信楽せよ」といわれたのは、私どもに「真実心を起こして信楽しなさい」といわれたのではなくて、「阿弥陀仏の真実なる本願を疑いをまじえずに受け容れなさい」といわれた言葉であると領解されたのです。(『註釈版聖典』643頁)
Qそれでは次の「至心信楽せよ」というのは「如来の至心を信楽せよ」といわれているというのですか。
Aその通りです。ですから、信楽とは、如来様の本願のみ言葉に嘘も詐りもないと疑いなく受け容れている状態をいうのです。それで信楽を釈して、「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、はなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。といわれたのです。すなわち十方世界の生きとし生けるすべてのものに向かって、私の誓願には、嘘も詐りもないから、この言葉の通り疑いなく受け容れなさいとお勧めになっているのが「至心信楽」という言葉であるというのです。ですから凡夫に自力で真実な信心を起こせと勧められた言葉ではないといわれるのです。『同上』
このように味わえば「信楽」は凡夫が自力で起こす信心ではなくて、私を救おうと願っておられる如来の真実心(まことの親心)が私に届いて私の疑い心を除いてくださった心であるということがわかりましょう。
Q次に「欲生」とは、どういう心ですか。
A「欲生」とは、「わが国に生まれんとおもへ(欲生我国)」を略した言葉です。それは阿弥陀仏の真実なる本願の仰せの内容です。すなわち自分の人生の行方を見定めることができないで迷っている私に向かって「安楽浄土へ生まれることができると思いなさい」と慈愛をこめて呼びかけてくださる言葉です。そのことを聖人は『教行信文類』「信文類」の欲生釈の初めに、次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。と仰せられたのでした。すなわち「必ず浄土へ生れさせる」と喚(よ)んでいてくださる真実なる本願(至心)のみ言葉を聞いて、その仰せを「まこと」と疑いなく受け容れた(信楽)とき、そこには「必ず、往生させていただける」(欲生)という思いが私に恵まれてきます。それを「欲生心」とも願生心ともいうのです。それを『尊号心像銘文』には、(『同上』241頁)浄土に生れんとおもへとなり。といわれたのでした。(『同上』643頁)
このように見ていきますと、三心といっても、必ず浄土に往生させて涅槃のさとりを完成させると仰せられる「まごころ」のこもった本願招喚(招き喚び続ける)の勅命を、仰せの通りに疑いをまじえずに聞き受けている信楽のほかにはないことがわかります。
すなわち本願の真実(至心)のみ言葉を、疑いなく聞き受けている(信楽)ところに、往生一定と浄土を期するこころ(欲生)が自然に具わっているわけです。これを親鸞聖人は、如来よりたまわった「三信即一の信楽(信心)」と言われたのでした。そしてそのような本体は仏心(仏智)である信心が恵まれたときに、往生し、成仏する因が完成しますから、「信心正因」と言われるのです。それを信心が決定したとき、現生(現在の生存中)において、すでに仏になることが決定した正定聚の位に入れしめられているとも言われたのでした。(「【二】阿弥陀仏の本願」より)
(つづく)



