西原祐治 / 脱常識のすすめ (3)

二つ前の投稿の続きです。
本当に豊かな世界とは、すべてが完ぺきで、都合の良い、マイナスのない世界ではなくて、弱さや不完全さをつつみ、不完全のままに調和のとれた世界である(中略)
 自分の愚かさが明らかになり、その愚かな私を受け入れていく人生観が与えられる。これが信仰の恵みなのでしょう。
人生万端、今が目的の中であり、今が報酬であることに開かれて生きる。すなわち感謝の生活ということです。
 「ありがとう」(今あること有り難し)という言葉の中に込められている豊かな心を、理屈や言葉でなく、日常生活の実践の中で、次の世代に伝えたいものです。
 私たちは科学と生活様式が発展することが、そのまま幸福への道だと思い違いをしているのではないでしょうか。戦争、公害、原子力、人類は科学技術が作り出した危機の中に生活しています。科学技術が悪いとは思いません。その科学技術の発達によって育まれる、人間の知性への驕りや過信、私はそこに危険さを感じます。
 人間の知性は信頼できない。釈尊は、私とは迷いの存在だと説かれました。そのことを熟慮して科学技術と接することが大切です。
経験の「経」は縦糸という意味ですが、経験とは長さではなくて、深さだという思いに至ります。宗教的経験とは、生死を貫く深さを持ち、人間の苦しみや悲しみを浄化してくれるものだと思っています。
 地獄。それは深い地の底にあると示されています。地の底という言葉から、光のない、幽閉された世界をイメージします。それは、希望のない、欲と怒りと愚かさでがんじ絡めになっている私の姿を描写しているようにも思われます。
 それに反し、仏の世界は光でイメージされます。仏さまに出遭うとは、光に出遭うことです。
(中略)
 私の本当の姿が明らかになる。そこに光の仏さまとの出遭いがあります。
 今日は親の命日だからと、お寺に行ってご法話を聞く。それをお供えとさせて頂く。あるいは今日一日、腹を立てない。それをお供えとする。仏さまは、私が少しでも豊かになることを喜びとする方です。だから金銭もよいが、そうした心や行いをお供えする。まさに志です。
 仏さまへのお供え。それはそのまま仏さまから私へのご利益でもあります。
 浄土真宗では、死は忌むべきものとしません。阿弥陀如来の慈しみに目覚めた者。その人の死は、私という小さな我執から離れ、阿弥陀如来の慈しみに同化する時です。慈しみにすべての人が摂取される。それを倶会一処と言います。(中略)
 人は悲しみに出会っている時の方が、より真実が見えます。
 子どもの頃の私には、常に親の慈しみがありました。今、大人である私の背後にも、この私をかけがえのない存在であると見護って下さる仏さまの存在があります。その仏さまの慈眼の中にる私を思う。それは大きないのちの中にある私の発見でもあります。
阿弥陀如来の無条件の救いに帰依する。それは、無条件でなければ救われないような闇を持っている。それが私の真実の姿であることを受け入れることでもあります。
尊い心、大切にしたい心、未来に伝えたい心とは何か。仏像はそうした豊かな心を姿・形で表現しているのです。お寺の宝物といえば、その姿・形を通して表現しようとしている心が、大切な大切な宝物なのです。
 私は人間の可能性には二つの方向があると思っています。
 一つは自己拡大です。一より二、二より三と拡大していきます。スポーツや学問、社会的地位などはこれです。意識の上でいえば、自己主張であり、はつらつとした私らしさの発揮です。
 もう一面は、逆に、自分を小さくしていく方向です。自己主張をせず、自分を限りなくゼロに近づけていく。書道や華道などの道の文化が目指しているものです。意識の上でいえば、謙虚さであり、つつましさの実践です。
 仏教は主として後者を説いています。空や無我など自分を「ゼロ」にしようとする教えです。
(中略)
 私たちがあたりまえに過している一日に対して、ジャンボ宝くじに当ったような感動をもつことができる。これが心の可能性です。またゼロの視点により開かれていく世界です。
 私の帰依する浄土真宗という仏教は「他力本願」の宗旨です。他力とは、阿弥陀如来のことであり、阿弥陀如来の願いに目覚めて生きる教えです。阿弥陀如来の願いに目覚めるとは、大いなるいのちの中にある私の発見でもあります。
 そうした宗教的なレベルでなくとも、他なるものから願われて今の私があることは事実です。(中略)
 感謝は大きな願いの中にある私の自覚でもあります。将来への願い、今への感謝。共に、願いとの出合いであり、この願いを象徴したのが仏さまなのです。
Wさんは、六十歳になる目のご不自由な方です。宴席の間、色々な話を聞かせていただいたのですが、私はWさんに「目が見えたら何が見たいですか」と尋ねてみました。するとWさんは「人に親切をしてあげたい」と言われます。その意外な答えの内容は、目が見えないと、色々な人から親切を受ける。その時、親切をされた嬉しさから、自分も目が見えたら、人に同じ様な親切をしてあげたいと思うのだそうです。そんな日頃の思いがあり、目が見えたら人に親切をしてあげたいという言葉となったようです。
 私は、その時、私には見えている紅葉や景色や物などの目に映るものを予想していたのですが、Wさんには、形が見えないかわりに、目の見える私以上に、人の心や優しさが見えていたのです。眼が見えない人には眼が見えないなりに見えている世界があるということです。
 その時気づかされたことですが、私の問い自体が、私見える人、彼見えない人といったように、人を色づけして見ていたということです。
 人を評価することなく受け入れるには、まず自分は人を色づけして見ていることに気付くことから始まります。
 大地のような人、それは人を評価することなく見ていける人のことです。私はそうして人が育つ場がお寺だと思っています。
以前、ご主人ががんで六年間闘病生活を送っている奥さんにお会いしたことがあります。「六年の間に何か学んだことはありますか」と尋ねました。するとその方は、テーブルの上にあった少し水の入ったコップを指でさされました。そして「少しきざな言い方ですが、以前の私は、すべてがこのコップにこれしか入っていないという見方でした。しかし今は、これだけ入っていると見られるようになりました」と言われました。
 おそらく、六年間の闘病、ご主人の回復が見込めない状況、将来への不安など、自分を取りまくマイナスの状況の中で、以前だったらマイナスのことしか目に入らなかったことでしょう。
 しかし六年間の体験の中で、色々な友達に助けられたこと、またそんな友達を持っていること、ご主人と出会えたこと等々、苦しい状況の中にあって、なお輝きを失うことのない恵まれていることにも、まなざしが届くようになったことを、コップの水にたとえて言われたのでありましょう。コップにこれだけは入っているといわれるまなざしは、人と比べるという客観的なものではなく、「思える」という主観的なできごとです。
 私は、主観がすべてだとはいいませんが、この「思える」という主観的な世界をもっと意識的に大切にしていく必要があると思っています。








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【法話】「有難うございます。なんまんだぶつ」しか、浄土真宗にはありません。@覚証寺 2011.05.07

二つ前の投稿の続きです。そちらから続けて読まれることをお勧めします。

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アインシュタインの相対性理論はマクロな科学。ミクロの科学は量子力学です。ちょっと前まではこの2つが現代科学の最高峰と言われていました。ところが、今、量子力学と一般相対性理論では説明のつかないことが出てきています。それを説明するために最先端の理論を研究しているのがホーキングと言われています。ひも理論。時間と空間が多層構造をしているという理論です。

こういう風に、今まで分からなかったことが、こう説明したら解決した、ということがあります。それが真実です。

仏教もそう。

例えば。何で寿命が違うのか。不公平ではないかと思われるかもしれません。

そこで出てくるのが「前世」です。それを言われているのが『歎異抄』の宿業。前世、後世ということを語らないと説明のつかないことです。

『歎異抄』第十三条での、親鸞聖人と唯円のやり取り。「お前、私の言うことが聞けるか」「もちろんです」「じゃあ、人を1000人殺して来い。そうしたら往生出来る」。これは冗談っぽく言われていることですが、唯円は「1000人どころか1人も殺すことは出来ません」と答えています。すると、「お前、今、私の言うことは何でも聞くと言ったではないか」と親鸞聖人に一本取られています。

「これで分かっただろう。人を殺せないのは心が良いからではなく、人をを殺す宿業がないからなのだ。宿業があれば何をするかわ分からないのが私たちなのだよ」
さるべき業縁の催さばいかなる振舞をもすべし


過去にやった行いが宿業となり、その宿業によって何をしでかすか分からないのが我々である、と言われています。

過去世のことは分かりませんよね。でも、分からないから無いというのは傲慢というものです。分からないことは、「分からないこと」なのです。

何で日本に生まれてきたのか、なんであの母の子に生まれたのか。それは、過去世に原因があるのです。そうやって説くのが仏教です。それを自業自得と言います。これは親子夫婦と言っても代わることはできません。私たちは宿業の中に生きているのです。

善導大師は、
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
と言われています。

「信ず」とは、仏様のいうことをそのまま受け入れる、ということです。

「罪悪生死」とは、苦しみのことです。「四苦八苦」と言うでしょ。「四苦」とは、「生苦」「老苦」「病苦」です。

生まれたということは、死ななければならないということです。だから苦しまなければならない。それが生苦です。

そして老いねばなりません。この苦しみはどれだけ科学が発達しても無くなりません。

「苦」とは、「思うようにならない」ということです。「人生苦なり」と聞くと、「楽しいこともあるじゃないですか」と思うかもしれませんが、インドの元の言葉の「思うようにならない」という意味を知らないからそう思うのです。

年老いたいと思う人いますか?アンチエイジングが流行っていますよね。皆んな、年取りたくないでしょ?でも、年をとらなければならない。それが老苦です。

病気になりたい人はいないでしょう。でも、病気になる。それが病苦です。

死苦。よく「死にたい」と言う人がいますが、あれは愚痴です。本当に死にたい人はいないでしょう。

善導大師が「罪悪生死」と言われている「罪悪」とは苦しみのことです。遥かなる昔から、常に没し、この流れが止まることがない。そして、そこから出られる因縁がどこにもない者である、と信ず、と言われているお言葉です。

私たちをそのように仏さまが見られたので、仏の願いがあるのです。喩えるなら「お医者さんとは病人が作っている」のです。

仏さまが、私たちの、迷いの世界から一歩も出られない姿を見られ、なんとか救ってやりたいと願われたのが仏さまの願いです。

私を抜きにして仏さまはいません。

仏様って本当にいるのですか?と聞く人がいます。でも、私っているんですか?という人はいませんよね。私がいるということは、そのまま仏さまがいるということです。

私と仏さまは縁起の関係です。母親と母親と子の関係のようなものです 。母がいなければ子はいません。これは分かるのですが、子がいなければ母はいない、と聞くと、え?っと思うかもしれません。でも、子がいるから、母になるのです。「私を母にしてくれて有難う」「生まれてきてくれて有難う」と。

私と仏さまは、そのような関係です。私に苦しみがなければ仏さまは本願を建てられなかったのです。私を離れて仏さまは存在しません。

ここがキリスト教と仏教の違いです。キリスト教は、まず神さまがいて、というところから始まります。仏教は、まず阿弥陀さまがいて、という話ではありません。苦しむ私たちがいるから、その苦しみを助けてやりたいと願われた。

それが法蔵菩薩です。「若しあなたが浄土に生まれることがてきなければ、私も仏にならない」と誓われたのが「若不生者 不取正覚」です。それが本願、仏さまの願いの根本です。あなたが救われることが、私が救われることなのだ、あなたが救われなければ私も救われません、と。

仏さまに上下序列があるわけではないけれど、このような願いは阿弥陀さまの本願にしかないので、これを親鸞聖人は「超世の悲願」といわれました。

その法蔵菩薩が仏さまになった、と説かれたのがお釈迦さまのご説法です。

ということは、すでに救いの道が開かれている、ということです。

だから「助けて下さい」とお願いする必要はないと言われたのが親鸞聖人です。

浄土宗と浄土真宗は「真」の字があるかないかの違いしかありませんが、「真」とは”混じりっけがない”ということです。阿弥陀さまの他力100%で仏になれるのだよ、というのが浄土真宗です。

浄土真宗では「助けてくれ」とお願いすることはありません。こちらから足すものは何もないのです。

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり


十劫の昔から弥陀はすでに成仏されている。私たちの救いの道は開かれているのです。

そのことを知らされたら、そこにあるのは、やれやれ、有難いしかないでしよ?

だから、
この上の称名念仏は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ
なのです。「有難うございます。なんまんだぶつ」しか、浄土真宗にはありません。

あなたを仏にするから、安心しておけよ、というのが浄土真宗のご本願です。

その人生は、今晩、ただ今命が終わろうとも、仏様の世界が用意されている、という世界です。

私が安心するのではなく、与えていただいた安心だから「ご安心」というのです。「安心せよ」と呼びかけてくださっているのが、南無阿弥陀仏の呼び声なのです。

『春が来た』という歌がありますが、「春」というものを見たことがありますか?春が来たと何故分かるかというと、花が咲くからです。梅、桜、桃に花を咲かせる働きを春というのです。

春が来た



阿弥陀さまはどこにおられるのか。

南無阿弥陀仏と働きかけておられるのです。それは、隣の人の口から出ることもあれば、私の口から出ることもあります。

これが他力です。

「なんまんだぷつ」とお念仏させていただく身にさせていただいたのです。昔は、「そんな年ではない」「恥ずかしい」「縁起でもない」と言っていたのが、今こうして念仏の日暮らしにさせていただいたのは、阿弥陀さまの働きがあるからです。

なんまんだぶつのお働きの真っ只中でありました、というのを、親鸞聖人は「摂取不捨の利益」と仰いました。そして「摂取不捨」とは、逃げて逃げて行く者を追いかけて捕まえることだと解説されています。お寺参りする人は、捕まったということです。来ない人は逃げている人です。

お念仏させていただいているということは、分かりやすくいうと、阿弥陀さまに抱っこされているということです。母親に抱かれている子はニコニコ笑顔で安心して寝ておれます。

阿弥陀さまに救われ、安らかに日々を送らせていただく人は摂取不捨の利益です。救われていない人にはそれはありません。

そのために、寺があるのです。お念仏をいただいて良かったね、とお互い喜ばせていただくのがご法座です。そのお礼が、お給仕して念仏する日暮らし。そういうおじいちゃんおばあちゃんの姿を子供の頃から見て、伝わって、日本人の心を支えてきたのが浄土真宗です。

一言で750年といっても大変なことです。今年、親鸞聖人750回忌が行われました。阿弥陀さまのお働きがあってのことです。

それで、「たすけたまへとたのむ」というのはどういうことかというと、「助けてやるぞ」といわれる阿弥陀さまに対して「たすけたまへ(どうぞ助けなさいませ)」と言っているのであり、「たのむ」とは「お任せする」という意味です。決して「助けて下さいとお願いする」ということではありません。


(終了)

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この後、控え室にお邪魔して、阿部先生と直接お話しさせていただきました。そのとき聞かせていただいたことは、後日まとめます。



【法話】「2000年前も2000年後も変わらない真実があります」@覚証寺 2011.05.07 (1)

5月7日、調布市の覚証寺にて阿部信幾先生より仏さまのお話を聞かせていただきました。


無上甚深微妙の法は
百千万劫にも遭い奉ること難し
我今見聞し受持することを得たり
願わくは如来の真実義を解し奉らん



まず始めに、地震の話をさせていただきます。

頑張ろう、頑張れ、と、どこへ行っても言われていますね。その通りです。

仏さまの説いた教えに、布施があります。

これは、"持っている者は持っていない者に施しをしなさい"ということです。それはお金だけでなく、才能、知識も含まれます。そうすることによって、平和が保たれるのです。

以前フランスに行ったとき、ベルサイユ宮殿に行った人が「あんなことやったら革命がおきる訳だ」と言っていました。宮殿の内外では大変な貧富の差。持てる者がどんどん持っていったのです。アメリカでもそうだと思います。成功した人だけがさらに成功してゆく。中国でも、例えば西太后など。持てる者が贅沢三昧。

持てる者が持てない者を利用してゆくと、世の中どんどん悪くなって行くのです。商才のある者に収入が増えること自体は良いのですが、持てるものが持てないものに施すというのは一つの智慧ですので、覚えておいたら良いでしょう。

被災しなかった人が、震災にあった人に義援金を送るのは、仏さまの教えからして当然のことです。

私は3月11日、群馬県高崎にいましたが、他のところと比べると被害はあまりありませんでた。あの日、朝起きて今日が人生最後の日だと思った人がいたでしょうか。今朝起きて、今日自分が死ぬ日だと思った人がいるでしょうか?いつ何が起きても不思議ではないのが日本です。そういうことを学ばないと、亡くなった方に申し訳ありません。

蓮如上人の『御文章』。「聖人一流章」がお筆はじめ、一番最初に書かれたといわれます。短いし、内容も素晴らしいので、「肝要は御文章」と、浄土真宗ではよく拝読されます。しかし、宗派を超えて有名な御文章があります。それは「白骨の章」です。

禅宗の一休が元旦に、棒の先にシャレコウベをつけて、「めでたいめでたい」と歩いて回っていました。「一休さん、何がめでたいんですか」と言われると、「よく見なさい。目がないだろう。だから"めでたい"のだ」と答え、こう詠ったといわれます。

門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

「白骨の章」も、まさにそのことを説いておられます。

堺の豪商の17~18の娘が亡くなったとき、その豪商に蓮如上人が出されたお手紙が白骨の御文です。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


一休にある人が「一休さん、めでたいことを書いて下さい」と頼んだことがありました。そのとき一休はこう書いたといわれます。

爺が死ぬ。子が死ぬ。孫が死ぬ。

「一休さん、めでたいものを書いてくれと言ったのに、それはあんまりではないですか」と、その人が言うと、一休。「めでたいではないか。これが逆だったらどうだ?」

朝起きたら、夕方には白骨になっているかもしれない。そして、その順番は決まっていない。それが世の中なのです。

そして、問題は次。

「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」

『領解門』にもありますが、「後生たすけたまへとたのむ」。これについて本願寺で大騒動が起きたことがありました。

今の知識で読むと、「阿弥陀さまどうか助けて下さい、とお願いする」という意味になります。そうすると、往生一定・御助け治定なのだ、と。(しかしそうではありません。)

往生とは「生まれて往く」という意味です。往く場所が浄土だったら浄土往生。その上に「極楽」と付くと「極楽浄土」。「極楽」とは「極」とは「最高」という意味です。「楽」とは、「楽ちん」の「楽」、「楽しい」といっても良いですが、元の意味からいうと、「幸せ」という意味です。ですから、「極楽」とは「最高の幸せ」ということです。

最高の幸せとは何ですか?

美味しいものを食べたら「いやあ、幸せ」と言いますね。人間が天にも昇る幸せとは、人生に何度もないと思いますが、その一つに結婚があると思います。よく披露宴に呼ばれて行くことがありますが、嬉しそうにしているのは大抵は男性の方ですね。それは、普通、男が結婚してくれと言って、女性の方が承諾するからです。許しを請うて承諾を得られたとき、それは幸せでしょうね。

でも、最後はさよならするんですよ。最高の相手と出会ったその未来には、最高の悲しみが待っているのです。だから「何でこんな人と」と思っている人、嘆く必要はありません(笑)

人間世界の喜びには、必ず悲しみがついているのです。紙の裏と表の関係のようなものです。そして、私たちは紙の表側を一生懸命求めているのです。これが最高の幸せと言えるでしょうか?

お経には「不苦不楽」という言葉があります。そして、「これを快楽と名づく」と。この、「快楽」が、イコール「極楽」なのです。これを手に入れた方が仏さまです。

ところが私たちはそれを求めません。そんな私たちに、「極楽を求めなさい」と呼びかけておられるのが阿弥陀さまです。

では極楽とはどんなところなのか?それが説かれているのが『阿弥陀経』です。

極楽の木は、幹がサンゴ、葉っぱがメノウで出来ていると説かれています。ところが、隣の木を見ると、それは幹がメノウ、葉っぱがサンゴで出来ている、と書かれてあります。これは何を表しているかというと、極楽では、全てのものが境目なく混ざり合っている、ということです。

私たちはどうでしょうか。これは自分のもの、あれは彼のもの、と区別していないでしょうか。これを「我他彼此」と言います。「ガタピシ」って言いますね。

一方極楽世界は「融通無碍」と説かれています。本来、物事は境目なく一体となっているのです。それなのに、これは俺のものだ、あれはお前のものだと線を引いている。そこにありとあらゆる問題が生じてくるのです。極楽浄土は、すべてのものが一体となって、自他の垣根が無い世界です。

そうすると、私の悩み苦しみは、仏さまの悩み苦しみになるのです。

人間の世界は、他人の不幸が自分の喜びになります。例えば大学受験。誰かが落ちないと入ることはできません。片一方では泣いているのに片一方では笑っている、と。

仏さまの世界は境がありません。だから、どんなちっぽけな命でも、仏さまの悲しみになるのです。それを「大悲」といいます。

頼んだことないのにどうして阿弥陀さまは私を救うといわれるのか。それは、お前が救われないと俺が救われないからだ。だから助かってくれよ、任せてくれよ、と呼びかけておられるのです。

それが「南無阿弥陀仏」の六字の呼び声。そう受け止められたのが親鸞聖人です。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀さまが、私たちに呼びかけておられる呼び声だと。仏教界広しといえども、そのように受け止められたのは親鸞聖人だけです。

優れた科学者にコペルニクス、ガリレオがいます。天が回っているのではない、地球が回っているのだ、と地動説を唱えました。何でそんなこと分かったのかな、と思います。今だったら、スペースシャトルで外に出れば分かる事ですが、当時はそんなことは出来ませんでしたから。

真実とは全てそうだと思いますが、そういう風に受け止めたら今まで分からなかった謎が皆解けた、ということがあると思います。そのように受け止めたら無理がない、なるほどねー、納得、というのが真実です。お釈迦さまが言ったから真実なのではなく、本当のことを言ったから仏陀というのです。

現代人がなぜお経を受け止められないのかというと、あそこには2500年前のインドの宇宙観で説かれているからです。それを読むと、そんな馬鹿な、と私たちは笑いますが、あと1000年後の人が我々の宇宙観をみたら同じように笑われると思いますよ。

そういうことは時代に応じて変えてゆかなければなりませんが、2000年前も2000年後も変わらない真実があります。

それは何か。

死んでゆかねばならないという真実です。命が終わるという問題を悩まない人はありません。それを「後生の一大事」といいます。その解決が説かれているのが仏教です。

長くなりますので、休憩の後に続けます。

覚証寺






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