★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2011年07月15日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (4)[浄土往生の道を選択する]の続きです。
(中略)
『歎異抄』の後序には「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを……(『註釈版聖典』853頁)
という親鸞聖人の「つねの仰せ」が収録されていることは有名であります。
十、親鸞一人がため
Q生きとし生けるすべてのものを救うと願い立たれた阿弥陀仏の普遍の救いを、「ひとへに親鸞一人がため」と言われるのは、自分一人のこととして、矮小化したことになりませんか。
A決してそうではありません。普遍の救いといっても、底引網で魚を掬(すく)いあげるようなことではありません。一人ひとりを、本願を信じ念仏する者に育てあげ、真の仏弟子に転換させることです。したがって如来の呼びかけは「我よく汝を護らん」と二人称単数で呼びかけられ、「私お救いにあずかる」と「信知」することが肝要なのです。その意味で一人一人の救いなのです。
とりわけ『歎異抄』の「親鸞一人がため」と言われた言葉には、特別の意味が籠(こ)められていました。それは、すぐ次に「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という言葉が続いていることによってわかります。
Qどういうことがわかるのですか。
Aさとりの智慧を極めた阿弥陀仏(法蔵菩薩)ほどの方が、五劫の間も思惟しなければ、一切衆生を必ず救えるという救済法を選択して、本願を建てることができなかったのは、ほかでもない、この親鸞のような、愚かで罪深い者がいたからであると読み取られたのです。さとりを開く手がかりさえももたないこの親鸞をどうすれば救えるかと、まるで死者を甦らせるような救済法を見出そうとされたから、五劫もの時間がかかったに違いない。そのように味わったとき、五劫思惟して、念仏往生の本願を選択されたという教説を聞くにつけても、そのような長い長いご苦労をおかけしたのは親鸞一人のせいであったと慚愧されているのです。
ですから「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめちたちける本願のかたじけなさよ」という、しぼりだすようなお言葉が続くわけです。「それほどの業」とは、法蔵菩薩が五劫の間も思惟しなければ救う道が見つからなかったほど、「それほどの重い罪業」を指していたのです。それは、何よりも五劫思惟という教説を通して思い知らされた、自身の罪業の底知れぬ深さに気づいた人の深い慚愧の言葉だったのです。しかしそこには、そのような愚かな私を必ず救う本願念仏の大道を、選定して与えてくださっていることの勿体なさを慶ぶ心が同時に起こってまいりますから、「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」とご述懐されたのです。
要するに聖人が「ひとへに親鸞一人がためなりけり」と言われたのは、ただあっけらかんと「私一人がお救いにあずかる」といわれたのではなく、私のような愚悪な者がいたから如来さまに大変なご迷惑をお掛けしなければならなかったと深く慚愧しつつ、そのご恩を偲んでおられるのです。
Q『歎異抄』の中には、その文章を「さればそくばくの業をもちける身にてありけるを」と書いてある一本がありますが、どちらが正しいのですか。
A『歎異抄』の原本はまだ発見されていませんので、原本と照合して確かめることはできませんが、現存する最古の写本である蓮如上人書写本(西本願寺蔵・重文)と、上人の滅後17年目の永正13(1516)年に写された古写本には、「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを」と記されています。しかし上人滅後20年たって、永正16年に書写された一本(大谷大学蔵)には、「そくばくの業」となっています。
「そくばく」とは「そこばく」のなまりで、数量を明示しないで、「幾らかの」という意味と、「数量の非常に多いさまを表わす」場合とがあります。ですから「そくばくの業」を、「数え切れないほどの罪業」という意味で理解すれば、「それほどの業」という場合と内容的には変わりません。しかし「それほどの業」の方が『歎異抄』の文脈にも合致しており、原型であったと思いますので、私は蓮如上人にしたがって、「それほどの業」と読んでいくことにしています。
Q『歎異抄』の文脈に親しいというのは、どういうことですか。
A『歎異抄』の著者(唯円房)は、この親鸞聖人のご述懐に続いて、自身の領解を述べていきますが、まず初めに、この聖人のお言葉が、善導大師の「散善義」に示された二種深信の中の機の深信のこころとまったく同じであると言っているからです。いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。(『註釈版聖典』853頁)
と言われたものがそれです。
Q二種深信とは、どういうことですか。
(「【二】阿弥陀仏の本願」より)
(つづく)

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の続きです。
目次 1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
2.2 二 宗祖における宿善論
2.3 三 蓮如上人の宿善論
2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び
3 第二章 二種深信についての問題
3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較↓↓今回はここから↓↓
3.3 三 後生の一大事についての問題
3.4 む す び
三 後生の一大事についての問題
以上述べて来たように、高森親鸞会は罪悪深重・地獄一定の自覚を強請するのであるが後生の一大事の自覚もまた強調するのである。即ち『顕正新聞』には 後生の一大事とは何か、人間は必ず一度は死なねばならない、では人間は死んだらどうなるか。釈尊は必堕無間と四十五年間呼びつづけられた。「一切の人は死んだら必ず無間地獄におち八万劫年の間大苦悩をうけねばならない」これを後生の一大事という。(205号、昭和54・6・20)
とあり、又『白道もゆ』(高森顕著)には 仏法を聞く目的は後生の一大事の解決に極まる……一大事というのは取り返しのつかないことを言ふが、それは無間地獄へ堕在するということである。曽無一善、一生造悪が我々の実相であるから、因果の道理に順じて、必ず無間地獄へ堕ちる。これを経典には必堕無間と説かれている。(一三七頁)
とあり、又『こんなことが知りたい①』には 親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示された生死の一大事とはどんなことかといゝますと、これは後生の一大事といもいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです(六頁)
等とあり、又『顕正新聞』に(会員松栄三喜男氏談) その時、初めて私も死んだら無間地獄しか行き場がないという後生の一大事を知らされ驚いたのです。……そしてその時会長先生は、この大宇宙が火の海原になっても聞き求め解決しなくてはならないのが後生の一大事であり、後生の一大事の解決唯一つが、仏教を聞く目的であり、一生の目的であるとハッキリ断言して下さいました。(第181号、昭和52・6・20)
ともあるように、後生の一大事の自覚を強調し、「必ず無間地獄に堕ちる」ということを後生の一大事というのである。
宗祖の言葉には「後生」も「一大事」も見当らないようであるが、蓮如上人の『御文章』には人間はただゆめまぼろしのあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、後生こそ一大事なりとおもひて……(一の一〇、真聖全三の四一七)
とあり、又されば人間のはかなき事は老少年不定のさかひなれば、誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申すべきものなり。(五の一六、真聖全五の五一三)
等とある。蓮如上人が「後生」の依り所とした語句は恐らく『大経』下巻の雖一世勤苦須臾之間、後生無量寿仏国快楽無極。(真聖全一の三五)
とある「後生」や『往生礼讃』前序の前念命終後念即生彼国、長時永劫常受無為法楽。(真聖全一の六五二)
とある「後念即生」とあるのに依ったものと思われる。従って、後生とは元来は「往生浄土(極楽)」の意で使われていると考えられる。しかれば宗祖自身の言葉の上で窺えば、善鸞義絶の消息にみえるいかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして……(真聖全二の七二八)
とある「往生極楽の大事」ということが、後生の一大事という意になると考えることが出来よう。尚、蓮如上人の『帖外御文章』には世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。(蓮如上人遺文、稲葉昌丸編、五〇三頁)
とあり、後生を単に今生に対する意に用い「ながき世まで地獄におつる事」とあるところは、高森親鸞会の主張の根拠になるとも思はれるが、ここにも「後生は永生の楽果」とあるのであり、いずれにせよ主意とするところは「往生浄土(極楽)の大事」ということであろうと考えられる。
以上のことから考察して宗祖および蓮如上人の言葉の上から窺える「後生の一大事」ということは「往生浄土(極楽)の一大事」あるいはせいぜい「往生浄土(極楽)できるかどうかの一大事」という程の意味であり、高森親鸞会の主張するような「必ず無間地獄に堕ちる」ということを後生の一大事といっているのではないことは明らかであり、このことからも高森親鸞会は、地獄一定の自覚を強要する地獄秘事(信機秘事)の傾向の存するものとの非難はまぬがれないであろう。
む す び
以上、高森親鸞会の主張の二種深信に関しての問題点を述べてきたが、抑も二種深信とは善導の『散善義』に深信と言うは、即ち是れ深信の心也。亦二種有り。一に者決定して深く自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二に者決定して深く彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂取して疑い無く慮り無く、彼の願力に乗じて定んで往生を得と信ず。(真聖全一の五三 四)
とあるものである。宗祖は『愚禿鈔』にこの二種深信の文を引き、その後に今斯の深信は、他力至極の金剛心、一乗无上の真実信海也。(真聖全二の四六七)
と述べているように、一者、二者とある二種の深信がそのまま他力至極の金剛心であると示し、二種の深信は他力金剛心(信心)の相を分けたものとしているのである。このことから従来、信機・信法は一具であり、二種は別々でもなければ前後でもない、二種一具の信といわれるのである
然るに上に述べて来たように、高森親鸞会の主張は、地獄秘事(信機秘事)の代表とされている江州光常寺の主張と同一ではないが、地獄一定と自覚したところで初めて法の救い(本願の救い)にあえると主張して、自己の罪悪性・地獄一定の自覚を強調するのであるから、二種深信は信機が前で信法が後という二心前後起的な主張であり、又、後生の一大事についても、宗祖や蓮如上人の意とは異なる「必ず無間地獄に堕ちる」ことがそれであると主張して地獄一定の自覚をすすめるのであるから、やはり、地獄秘事(信機秘事)、機敷き安心、信機募り安心、二心前後起等の異義に類するものといわねばならないであろう。

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の続きです。
目次 1 はじめに
2 第一章 宿善論について
2.1 一 高森親鸞会の宿善論
2.2 二 宗祖における宿善論
2.3 三 蓮如上人の宿善論
2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
2.5 五 真宗先哲の宿善論
2.6 む す び↓↓今回はここから↓↓
3 第二章 二種深信についての問題
3.1 一 高森親鸞会の問題点
3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
↑↑今回はここまで↑↑
3.3 三 後生の一大事についての問題
3.4 む す び 第二章 二種深信についての問題
浄土真宗の信心が二種深信であることは周知のとおりであるが、古来これに関連した異義が縷々生じている。現代も教団の内外に異義と断ぜざるを得ないような主張が種々なされているように思われる。以下、高森親鸞会の主張における二種深信に関する問題を取り挙げ、検討することにする。
一 高森親鸞会の問題点
二種深信に関する異義として従来挙げられているものは、相互に重なる而も有するが地獄秘事(信機秘事)、機歎き安心、信機募り安心、信機正因、信機自力、二心前後起、二心並起、信後に信機の相なし等の義がある。
高森氏は『顕正新聞』 (親鸞会発行)に弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためであったの大歓喜は、地獄の釜底でなければ体験できない。(第22号、昭和39・4・15)
と述べ、又『こんなことが知りたい①』 (高森顕徹著)には 地獄一定と堕ち切ったものでなければ、本当に助かった信心(体験)は獲得出来る筈がないのです。(三一頁)
とあり、以下に どうしたら自力が廃るのか。これは説明を聞いて判るものでもなければ、自ら捨てようと思って廃るものでもありません、先ず自ら善知識を求めて真剣に聞法しなければなりません。そして払っても払っても、後から後から現われて、奪えるだけ奪っても、なお心の底に、こびりつく自力の心に悲泣悶絶、求道聞法の絶壁に行きづまり、礦劫流転の逆謗の屍を如来の前に投げ出す体験を通らなければ廃りません。(一一○頁)
とあり、又『こんなことが知りたい②』には 昔から死ぬ程苦しいことはない、と言われますように、信心決定する前念には本当に死ぬ苦悶を一度は体験させられます、聞法求道に精も根も尽きはてて悲泣悶死した体験を、善導大師は三定死と名づけられ「ゆくも死、かえるも死、とどまるも死、一種として死をまぬがれず」と絶体絶命、地団太ふんだ体験を述べておられます、親鸞聖人の「いづれの行もおよびがたければとても地獄は一定すみかぞかし」の悲痛のさけびも、この魂の臨終の体験を告白されたものです。大死一番如来の願力によって、この関門を突破された時にはじめて「即得往生後念即生」と身も心も南无阿弥陀仏の絶対の幸福を獲得して生まれかわるのです。(一○○頁)。
とあり、又『絶対の幸福』(親鸞会会員、谷口春子著)には 地獄より他に行く処のなき我身であったと地獄へ堕ち切った処まで行かなくては助けられた味わいは判りません。(一九頁)
とあり、又 阿弥陀様の光明のお育てにより、素地のままが照し出された時に、逆謗の屍がいが春枝であったと堕ち切らせて頂くのです。(七七頁)
とあり、又 第一我が身は如何なる器であるかを知らなくては、御浄土へは生まれさせて頂けません。お話は良く判っていながら、堕ちるぞよの何たる難しき事、一大事です。堕ちるまで聞き抜いて下さいね。二八二頁)。
とあり又、 本堂で阿弥陀仏のお姿をチラ。と見た時「アア、自分のような者は絶対に助からん」と、もうこれ以上堕ちるところがないというところまで堕ちてゆきました。その地獄の底で生きた阿弥陀仏とおあいすることができるのです。(二〇三頁)
等とある。以上の文から窺えるように、高森親鸞会の主張は、罪悪深重・地獄一定の自覚を持つべきことを強調し、そこまで堕ち切らないことには信心は得られないと主張するのである。
この主張と同じように、罪悪深重・地獄一定の自覚を強調して異義とされたものが、地獄秘事(信機秘事)、機歎き安心、信機募り安心等である。
ニ 江州光常寺の主張との比較
この種の異義で、地獄秘事(信機秘事)の代表的なものとされているが、寛政年間における東本願寺末寺の江州光常寺の主張である[14]。この内容は『続真宗大系』(真宗典籍刊行会編)第十八巻及び『仏教大辞彙』(龍太絹)によると(一)二種深心は信機と信法の二種なれば同時に非ずして前後なり。即ち信機は前にして信法は後なり、されば機を先づ信ぜざるべからず。御文にも我が身はわろきいたづら者なりと思ひつめてとあるによって、吾が機を地獄一定と落ち切らざるべからず。かく落ち切れば助くる法は弥陀の手元に存するを以て瞰むるに及ばず、然るに若し誤って法を瞰めんとすれば、これ本願に手をかくるものにして自力なり。瞰めざるは是れ実に深く法を信じたるなりと、地獄一定と知るのみを以て信心となせり。
(二)南無院阿陀仏は機法の二なり。若し其れ阿弥陀仏のみを信ずる時は遂に南無の二字は信ぜざるなり。然るに若し南無の機を深く信ずる時は自ら法に本づくなりと二字と四字と分割して機のみを信ずる義を助成せんとしたものである。
(三)目御文は一往の御教化、月を指すの指なれば深く拘泥すべからずと。
(四)決定心は行者に求むべからず。然るに今時、「決定せし」「頼みし」「信ぜし」と思うなどは悉く是れ自力にして本願に手を掛けたるものなり。
(五)絵像・木像は虚仮にして実の仏体は名号なりとして仏体を軽しめたり。
等と主張したことが述べられている[15]。この中(三)の蓮如上人を軽視する傾向は高森親鸞会にはみられないことであり、(五)の本尊論で名号を重視する点は高森親鸞会と類似する[16]点で興味深いのではあるが、ここでは二種深信の問題について論ずることが目的であるので(三)(五)の点にはこれ以上ふれないことにする。
(一)(二)(四)より窺えるように江州光常寺の主張は、二種深信の二種は信機が前で信法が後の二心前後起であり、吾が機が地獄一定と落ち切ることが肝要であり、法をながめては自力になるのであり、地獄一定を知るのみをもて信心とするのであり、機法の二つではあるが要は機を信ずることである。そして決定心は行者に求をべきものではないのであり「決定せし、頼みし、信ぜし」ということは、自力であるというのである。
以上のことから窺えるように、高森親鸞会の主張と光常寺の主張は、双方共に「罪悪深重、地獄一定の自覚を強調する点や信機が前で信法が後であるという二心前後起的傾向は同じであるが、光常寺の主張にみられる「法をながめるのを自力として、地獄一定と知るのみをもって信心とする」信機正因の主張や、「行者の決定心を自力として否定する」不決定心の主張は高森親鸞と相異なるようである。
この点のことは、上に挙げたように『こんなことが知りたい②』にはいづれの行もおよびがたければとても地獄は一定すみかぞかしの悲痛のさけびもこの魂の臨終の体験を告白されたものです。大死一番如来の願力によって、この関門を突破された時にはじめて「即得往生、後念即生」と身も心も南元阿弥陀仏の絶対の幸福を獲得して生まれかわるのです
とあり、『絶対の幸福』にはもうこれ以上堕ちるところがないというところまで堕ちてゆきました。その地獄の底で生きた阿弥陀仏とおあいすることができたのです。
とあるところから、高森親鸞会の主張が光常寺の主張のように、地獄一定を知るのみをもて信心とする信機正因を主張するのではなく、地獄一定の自覚を強調するのではあるが、それによって法の救い即ち本願の救いあえることを主張するのであり、信機のみをいうのではないことが明らかであろう、又「決定心」についてであるが、これについては『顕正』(高森顕徴著)に 現今の浄土真宗の道俗の中には、此の世で凡夫の我々が救われた、助けられた、大満足出来た、大安心に晴れた、ツユチリ程も疑いない日本晴の境地になった、獲信した、往生一定になった、信心決定した、ということになれるものではないし、又言うべきものではない。信を獲ておるか、いないか吾々凡夫に判るものではない、というような全くアキレタことを思い込み、他人にまで教えて共に迷わせている人が多いので、仏果は浄土に至らねば得られないが、信仰が徹底したかしないか自分にハッキリせんでどうするか、助かったか、助からんか我が身に判らんような信仰があるか、と強調せずにおれないのだ。(七二頁)
とあるように高森親鸞会では「決定心」の存すべきことが強調されるのである。このことには「一念覚知[17]」の問題も関わり複雑であるが、ここでは「不決定心」を主張する光常寺と明白に相違していることを述べることにとどめておくことにする。
尚、信機秘事(地獄秘事)の代表とされている光常寺の主張の他に信機自力説で有名な頓成の説との対比も必要なことと思われるが、『能登頓成御教誠』(続真宗大系十八所収)によると、頓成は二種深信の名目を否定し、信心とは弥陀法をたのむ他力の一心のみでありとし、信機は自力であり、漸教回心の機が蒙むることであり、一乗円満の機には煩悩具足と信知する必要はない[18]と主張するものであるから、高森親鸞会の主張とは相当に異なると思われるのでここでは詳論しない。
以上のように高森親鸞会の主張は光常寺の主張とは明確に異なる点もあるが、罪悪深重・地獄一定の自覚を強調する点や二心前後起的傾向は共通であり、二種深信の上で多分に検討を要するものといわねばならないであろう。
(脚注)
- (↑)『続真宗大系』第十八。『仏教大辞彙』第三。『異安心解説』(勧学寮編)。『異安心史』 (中島覚売著)。『真宗異義異安心の研究』(大原性実著)等参照。
- (↑)『続真宗大系』第十八の二七以下。『仏教大辞彙』第三の二一一五。
- (↑)山田行雄氏「現代における異義の研究」(二)(伝道院紀要19)
- (↑)拙稿「一念覚知説の研究」(伝道院紀要19)
- (↑)『続真宗大系』第十八の三三一以下。
(
つづく)

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