【法話】阿弥陀様の一方的なお働きですので、私たちの構うことではないのです。 2012.01.14,15 築地本願寺

1月14~15日にかけて、本願寺築地別院にて長谷清寿師から聞かせて頂いたお話のまとめです。

常例布教 築地本願寺 2012.01.14,15




善知識というのは自分を教化して下さる指導者のことです。親鸞聖人様にとっての善知識は法然上人様でした。

京都で勉強していた時、私は落ちこぼれでした。布教の勉強をしているとき、毎日試験と実演の繰り返しでしたが、私は龍谷大学も何も出ていないので教学のことは全然分からなかった。それで毎回毎回試験に落ちて。これでもか、これでもか、というくらいに落とされました。優秀な子は「頑張ったら大丈夫だって。出来る、出来る。頑張れ、頑張れ」と、そういう言葉は沢山くれるのですが、若い子は記憶力もあって覚えるのも早いです。私は39歳の後半で行ったので簡単には覚えられないのです。みんなの倍は一生懸命部屋にこもって勉強しましたが、覚えられないものは覚えられない。そして試験は次から次へとすべる。落第、落第、落第の中で「なんで私こんなんなんでしょうね」と先輩に相談した時に、色々な答えが返ってきました。「努力が足らないからかな」とか「勉強を始めるのが遅かったのとは違うか」とか。その中、ある先輩、、、ですけど若い先生は、、、実はその先生、昨日聞きに来てくれていたのです。私がここで話をすると分かっていて。だから緊張してたどたどしくなってしまいましたが、その先生はこう言ってくれたのです。「試験に落ちるということは、まだまだ勉強ができるということじゃないですか。いいなぁ。僕はうらやましいと思いますよ」と。普通ならば努力が足りないとか頑張れ頑張れという叱咤激励が多いのですが、頑張れ頑張れと言われるほど、落ち込んで辛い時には、そんな残酷な言葉はありません。「こんだけ頑張ってしよるねん、もうどないせいっていうんよ。あんた答え教えてくれるんけ」と関西弁で不平不満を言っていましたが、その先生は「勉強が続けられるって、いいですねぇ。うらやましいです」言ってくれた。落ち込んでいる私を、うらやましいと言ってくれた。その言葉に、本当に救われる思いでした。この先生の言葉がなかったら私はあきらめて「もういいです」と言っていたかもしれない、多分そうなっていたと思います。お金もかかる、時間もかかる、子供を放ったらかしにして住職に迷惑かけて、、、京都に約100日泊まり込みで集団生活していますから、これだけ迷惑をかけているのだから、これだけやってもダメだったら無理だわ、と思っていた矢先にその先生は慰めて、、、慰めるというよりうらやましいと言ってくれた。「勉強が続けられるって、いいですねぇ」とニコニコして言ってくれた。その言葉は本当に私の心に残る、一生忘れることの出来ない喜びとなりました。その言葉のおかげで「もうここまで来たんだ。やっぱりもう一回やってみよう」と、何とか何とか、ゴールにたどり着くことが出来たのです。

自分の人生の中でひっくり返るほどの感動、言葉に出会うということは、善知識との出会いと言って良いと思います。私にとっての善知識は、もちろん両親を尊敬していますが、その若い先生でした。皆様も、人生の中でそういう善知識という人にであうことがあると思います。また、今までにであってこられた方もあると思います。それを大事にして頂きたいと思います。




(中略)




皆さんは、五木寛之さんはお好きですか?直木賞作家の。龍谷大学で学ばれたりして、作家ですが浄土真宗に帰依されている方ですね。あの五木寛之さんが私の娘の高校に講演に来られたことがあります。そのときこう言われていました。

人生というものは、暗く細い夜道を、重い荷物を背負って歩いているようなものだ。そういう先行き不安だらけの心細い道ではあるが、遠方にポッと明かりが見えたとする。そうしたら、それだけでホッとする。何も歩く道が縮まった訳でもなく、背負った荷物が軽くなった訳でもない。でも、その光を目指して行けば確実に民家にたどり着ける、と思ったらそれだけで安心できる。

と。で、その光こそが、阿弥陀如来の光である、と譬えておられました。ああ、やっぱりさすが、作家は違う、と思いました。

本当にそう思います。辛いこと、悲しいことばかりの中で、行き先に一つの光が見えるだけで、荷物が軽くなる訳でも道のりが短くなる訳でもないのですが、それでも安心する。仏教的な考え方だと思いました。

浄土真宗の教えは、苦しみや悲しみを軽くしたりとか、なくしてあげようという、まやかしの宗教ではありません。それを乗り越える力を与えて下さる、先を照らして下さる、人生の指標がきちんと定まって下さる、というのが阿弥陀様の教えなのです。

五木寛之さんのお話、非常に良かったです。




(中略)




天台の千日回峰業は非常に過酷な修行ですので、戦後から40数名しか成し遂げられた方はいないということです。たまに何年かに一人、大阿闍梨といって千日回峰業を成し遂げた方がテレビで放映されたりしますが、その阿闍梨様は言われたそうです。千日回峰業は煩悩を断つが為の行ですが「自分が千日回峰業を成し遂げられたのは仏典のおかげだ、自分の力ではない、と本当に心から思ったけれども、その後で恐ろしいことに、自分は他人が成し遂げられなかった偉業を成し遂げたという驕りの心が沸いてきた。人間の煩悩の深さを思い知らされたことでございます」と。死ぬほどの行をした後でも、やはり煩悩を断つことは出来なかったということです。

煩悩は絶対に断つことが出来ません。私たちが生きているそのものが煩悩なのです。

私たち、阿弥陀様を信じていても「目に見えなかったら不安」と思われる方は多いと思います。でも、阿弥陀様は目に見えるようなちっぽけな存在ではありません。目に見えるのは有限のものですが、阿弥陀様は無限のお方です。

こちら側がどれだけ一生懸命色々なことをしても、煩悩を断つことは出来ません。親鸞聖人は幼少の頃からから29歳まで天台におられて、でもやはり煩悩を断つことは出来なかったことに幻滅して比叡の山を降りられました。そこで、煩悩あるがままで救われるという浄土の教えにであって感動されるのです。だから
建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
と、自分が20年間死にものぐるいでやってきた修行を全部「雑行」と言い切って法然上人様の教えについて行く、「本願に帰す」と年号まで入れて著されているのです。そのことを思うと親鸞聖人様と法然上人様のであいは人生を根底からひっくり返す偉大なであいであったと言えると思います。

私たちが助かるのは、阿弥陀様に摂取していただいて仏様になるのです。自分の力では決して往生できません。

ここ(本堂)に、お木像として手を合わせる対象として阿弥陀如来様がおられます。私たちの方に前屈みで立って下さっています。それと、皆様のお家は絵で描かれた阿弥陀様ですか?後ろに48本の(あれは四十八願を表わしているのですが)後光が差している、奇麗な絵の中に阿弥陀様がいらっしゃることもあります。そしてまた「帰命無量寿如来」と文字で表わされていることもあります。また、今皆さんが言われたように、口から出たお念仏があります。その中でどれが一番尊いと思われますか?答えは、自分の口から今出たお念仏が一番尊いのです。お木像ももちろん尊いので粗末にしてはなりませんが、煩悩で汚れきった自分からでも口からお念仏が出て下さる、その南無阿弥陀仏のお念仏が一番尊いのです。そう考えると、この本堂の中はお慈悲の中ですが、お念仏が口から出るというのはどこででも阿弥陀様は一緒にいて下さるということなのです。

阿弥陀様の世界は悟りの世界、煩悩のない世界。この娑婆は「世間虚仮」と言われるように争いや醜いこと、辛いことばかり。この娑婆を此岸と言います。そして涅槃、煩悩のない世界を彼岸と言います。彼岸は(生きている私たちは)誰も往ったことがありません。しかし、阿弥陀様の一方的なお働きですので、その世界へ往けるか往けないかは、迷おうが迷うまいが、自分は大丈夫だろうかと不安に思う時もあってもそれは私たちの構うことではないのです。仏様は極楽浄土という素晴らしい世界を用意して下さっています。そこに往けるのは当然決まっているのですが、往って見て来た方はいらっしゃいません。でも、それを疑う心はいけません。ただ一心にたのむというのが大事なのです。

私たちは今娑婆世界に生きておりますけれども、次に生まれる世界はとんでもない素晴らしい世界だということを信じて欲しいと思います。




(中略)


常例布教 築地本願寺 2012.01.14,15



お念仏というのは、私たちが声を出しているのですが、届けて下さっているのは阿弥陀如来様です。もし、とんでもない恐ろしい時になったら「南無阿弥陀仏」ではなく「たすけてー」「怖いー」という言葉が出るのではないかと思います。穏やかに「南無阿弥陀仏」と言えるような状態になればそんなに有り難いことはないですが、身の危険が迫った時というのは、まず「逃げたい」「怖い」と思う気持ちの方が先だと思います。阿弥陀如来のお言葉が私の口から出て下さる時というのは、阿弥陀様が私との交流をして下さっている時だと思うのです。だから自然と本堂の中に来たらお念仏が出たり、そして悲しいこと辛いことがあっても、心が穏やかになるのはお念仏を称えた時ではないかと思います。それは、阿弥陀様のお働きが今の私に届いている瞬間なのです。そう思わせて頂くと、念仏を何万回、何千万回称えたところで、私が称えたことが積み上がるのではない、1回1回のお念仏が尊いのです。有り難いのです。

何回お参りしてもどうもピンと来ないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でもそれはそれで良いのです。その方がお寺に来られるとか手を合わせるという行動をとられた時点で、もう救いの中にあるのです。自分に疑問を持たれるのは大いに結構です。でも、阿弥陀様への疑問は一切タブーです。阿弥陀様の独り働きだから疑う必要がないのです。仏様の教えは真実だし、仏様のお救いは絶対です。そのかわり、私たちの行いや願おうとするまやかしの心は虚仮の世界です。ウソばかりです。臨終の一念まで煩悩は消えることがありません。

親鸞聖人様は20年修行をされましたが、煩悩は断てないことを心から領解された上で、お念仏一つで救われるという世界に入られたのです。その時の感動は嬉しかったと思います。だから、法然上人様の教えを信じて自分が殺されるようなことがあっても、地獄に堕ちるようなことがあっても、悔いはないと仰っています。それほどの方とであえるというのは幸せな方だと思います。

浄土真宗のお念仏は報恩感謝のお念仏で、お願いするお念仏ではありません。こちらからお願いしたら何か返って来るだろうと期待するじゃないですか。そんなギヴ・アンド・テイクのお念仏ではありません。ありがとうございます、よろしくお願いします、お任せいたしますのお念仏です。阿弥陀様の独り働きですから。

阿弥陀様のお力を大悲ということがあります。「大」が付く時は必ず阿弥陀様のことです。「愛」と「悲」とは違います。愛には憎しみが生まれてきます。でも大悲には慈しみの心しかないのです。阿弥陀様は煩悩にまみれた私たちを慈しむ心で照らして下さっているのです。それは目には決して映らない、そして私の力でどうこうしようともどうなるものでもない、阿弥陀様の方からすべてお見通しです。だから、悟りの世界に往きたいとか彼岸の世界がどうなるとか、そういうのはこちら側の言い分であって、阿弥陀様の世界はとんでもなく素晴らしい世界です。だからすべてをお任せするのです。

皆さん、カナヅチってご存知ですか?溺れる人というのは、ジタバタするから溺れるのだそうです。あれ「もう、どうでもいいや」と力抜くと浮くんです。これ不思議ですね。阿弥陀様の世界を「本願海」と海に譬えられることがあります。大きな海原というのは、力を抜いたら本当に穏やかに浮くのだそうです。ジタバタして何とかしようとすると、沈んでとんでもないことになるのです。それと同じで、こちらでジタバタしてもどうにもならないのです。阿弥陀様の懐に入ったらフワッと浮いたのと一緒です。

辛いこと、悲しいことはこれからあるかもしれないし、これまでにそういう経験をした方は沢山いると思います。でも、その一つ一つのことが全部阿弥陀様の救いの中にあったということを自覚して頂ければ「阿弥陀様のことは見えない」「阿弥陀様とはどんな方だろう」「自分は本当に大丈夫だろうか」というような疑問なんか吹っ飛んでしまう力があるのです。阿弥陀様の方からの力はとてつもない力です。自分で確かめることは出来ない、確かめることが出来るのは、皆様が仏様に成った時だけです。この娑婆の世界でどうだこうだと思うことは一切関係ありません。ただただ感謝、お念仏。そのお念仏も、阿弥陀様が我が口から出て下さるようになっている、いい仕組みがちゃんと整っているのです。浄土真宗の教えは決して行をするのではない、阿弥陀様が私たちに代わってして下さっているので、あなた達はもう何もすることはないよ、ただただ報恩感謝のお念仏を称えて私の元に戻って来いよ、というお浄土を整えて下さっているのです。



なにか質問ございませんか。なければ姫路の名物お教えしますよ。生姜醤油のおでん。私は姫路生まれの姫路育ち。地元を愛しています。故郷というのは良いものですね。生姜醤油にちょっと砂糖を落として食べるおでんは美味しいですよ。一味唐辛子を入れて食べる人もいます。だからおでんそのものは薄味です。


常例布教 築地本願寺 2012.01.14,15





【追悼】中西和上ご往生 ~ 中西智海 / 親鸞教学入門(0)

4月27日の朝、お同行の純朗房義信さんよりメールがあり、中西智海和上が20日にお亡くなりになられたことを知りました。

中西和上とは直接のご縁はありませんでしたが、『親鸞教学入門』というご著書で浄土真宗の教えについて丁寧に教えて頂いております。その中から、自分なりに心に残ったことをこのブログに書き留めてきましたが、最近も投稿したばかりなので悲しく思います。

今回は、和上がどのようなお気持ちで筆を執られたのか、今一度「はじめに」を味わってみたいと思います。

はじめに

 親鸞聖人とその教えについて書かれた本はまことに多いといわねばなりません。また本来「入門」を書くということはその道のいわば権威者がなすべきことなのかもしれません。そういう意味で、多くある事に、また一冊を加えるということ、権威者のなるべきことなどと考えると、ここにこのようなかたちで世におくることは文字どおり汗顔のいたりであります。
 ただ、私を決断させたものは、私の後から、何とかして親鸞聖人の教えの内実に接近しようとする人たちへの捨て石になればとの思いだけであります。
 この本を書くにあたって、いかかさでも私の頭の片隅にあったのは次のような点であります。
  1. 親鸞聖人の教えは、現代に生きるかけがえのないいのちにどのようなメッセージとなるのか。人生とのかかわりの中で、考えてみたい。
  2. 親鸞聖人の血と涙の体験から生まれた結論のことばをいきなり解説するのではなくて、それに至るプロセスを考えてみたい。
  3. できるだけ専門語をさけて、ことばを暗記するのではなくて、思索する材料となるよう考えてみたい。
などのことであります。
 いまこの本が上梓される運びになったのは永田文昌堂主のあたたかいご厚意のほかありません。ここに記して深く感謝申上げます。
 尚、校正の労を煩わした土岐慶正、吉良和憲、鎌田宗雲学契に心から謝意を表します。
 何卒、みなさまのご𠮟正、ご批判をいただきますよう、切にお願いいたします。
   昭和50年4月8日
著者


「捨て石になれば」との中西和上のご苦労があればこそ、浄土真宗の教えを知ることが出来たと感謝しています。

以下、過去に書いた文章を紹介し、読み返すことをもって追悼とさせて頂きます。

徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(1)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(2)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(3)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(4)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(5)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(6)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(7)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(8)
徒然 – 中西智海 / 親鸞教学入門(9)


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、




中西智海 / 親鸞教学入門(9)

(8)の続きです。

「他力」の源流と人間への眼

 他力ということばは仏教、特に浄土教において大切なことばとして広く用いられ、教えの重要なしくみをあらわしています。
 ところで、浄土教で「他力」という語句をはっきり使われたのは曇鸞大師がはじめてであります。曇鸞大師は、師の菩提流支が梵語パラタントラ(paratantra)を翻訳して「他力」とされたのにはじまるとされています。このパラタントラは後世、中国の唐代の実叉難陀の訳(新訳といっています)では「縁起」または「依他」と翻訳されていることばなのであります。「縁起」「依他」ということばからは直ちに依存主義とか怠け主義を連想しないのに「他力」というといかにも依存主義とか怠け主義に連結されるのも皮肉なことといわねばなりません。ともあれ、原語は同じであり、この翻訳の相違はものの関係しあうあり方を理的に(静的に)表現すれば「縁起」「依他」ということになろうし、人格的(動的)に把握すれば「他力」ということになるというようにうけとめてよいでしょう。
 そうしますと、他力とは縁起の実践形態であって我執(自己中心性)が限りなく破斥されてゆくはたらきを意味するものとなります。してみれば、「本願」の原意と合致いたします。本願とは衆生(sattva 生きとし生けるもの)は我執(自己中心性)が破斥せられねばならないように前から縁起の理の必然性の上におかれていることを意味し、そのような約束のうちにあることをいうのでありました。つまるところ、「他力」というのも、「本願」というのも縁起の実践形態ということにほかなりません。
 そういたしますと、「他力」という語句は曇鸞大師がはじまりではありますが、『無量寿経』の「其仏本願力」ということも、龍樹菩薩の「本願力を帰命す」ということも、天親菩薩の「仏の本願力を観ずるに遇ふて空しく過ぐる者なし、能く速かに功徳大宝海を満足せしむ」といわれるのもすべて「他力」のことがらをいいあてられていたこと、そして「他力とは如来の本願力なり」(『教行信証』)といわれるのもその意味からもうなずくことができるように思われます。(後略)

「仏に成る」「救い」という次元でいわれる他力

 ところで、「他力」とはもともとどのような次元で使われることばなのでしょうか。
 「他力」とは「自力」に対することばであることはたしかであります。「自己の智慧・能力・功徳など、自己にそなわった力を自力といい、こうした自力をたのみとして修行に励み、さとりをえようとする教えが自力の教え」であり「自分以外の仏・菩薩などの力を他力という、仏・菩薩の力をたよりとする教えは他力の教えである」(『新・仏教辞典』)というようなものであります。ともあれ、自力とか他力ということばは原則的には「仏に成る」か「成れないか」という一点で使うことばであったということを確認しておかねばなりません。真宗的にいえば「救い」の一点で使うことばであります。弥陀同体の証を得させていただくかどうかの次元の問題であるということであります。もとより、そこの次元を通過した念仏者のよろこびとしては「たしなむ心も他力なり」とか、「萬事に付て、よき事を思ひ付るは御恩なり、悪ことだに思ひ捨てたるは御恩なり。捨るも取るも、何れもいずれも御恩なり」という世界がひらけてくるのであります。しかし、原則的には「自力」とか「他力」とかいうことばは「仏に成る」か「成らぬか」「救われるか」「救われないか」という一点において使われるきびしいことばであることをはっきりうけとめなければなりません。
 更に親鸞聖人が「自力」「他力」といわれたのには教義的歴史があるのであります。「定散自力」といわれ、「定散の自心」ということばがありますようにわれわれが悟りをひらく因果について、定散二善をはたらかすことを自力といい、定散二善を脱却して仏の本願にまかせることを他力といわれているのであります。ですから「定に非ず、散に非ず」ということによって他力の信心という内容をいいあてられているのであります。「定散二善」といういい方は善導大師が自力諸善をこの二つに分類されたもので、定善とはみずから心を静めて智慧をみがき、仏の世界を観察し、仏を捉えようとすることであり、散善とは仏の世界を観察して仏を把えるというところまでは行けないが、せめてりっぱな心になって仏に近づこうとすることであります。
 しかし、「三願転入」のところでたしかめましたように自我ののこる心によっては仏に成ることはできないという次元で仏力をいただき、仏のいのちにふれて救われてゆくという「他力」の世界があったのであります。
 このように親鸞聖人において、「仏に成る」ことの因果について、定散を主体とするか仏力を主体とするかという次元で自力とか他力ということばが使われていることを注視しなければならないとおもいます。

他力廻向

 浄土真宗では「定散自力」とか「定散の自心」といわれるレベルのことでこの私が仏に成ることはとてもできないというめざめから、仏に成るすべてのはたらき、因法が仏の方から廻施されることによって救いは成就するのであると説かれるのであります。これを「他力廻向」というのであります。
 他力ということだけでなく他力廻向と「廻向」がつけられて熟語となっているのは、それなりの意味がなければなりません。
 他力といわれるだけでは如来のこころはうなずけても、この私とどうかかわるのか、その関係を明らかにするために如来の廻向をかたり、私が領受していることを示そうとされたというべきでありましょう。更に、廻向というと、それこそ生者が亡者に追善の供養をするという発想や、自分の善根を他人に与えるという理解があることを思うとき、名号廻向とか信心廻向というとなにか特別な「もの」でもいただくような発想に陥りやすいのですがそれはまったく的がはずれているといわねばなりません。南無阿弥陀仏の名号は如来が私の往生の因も果も、ことごとく成就されたことを告げてくださる呼び声でありますから、それを如実に聞かせていただき、信じさせていただく現実を廻向というのであります。このように廻向と説かれる意味は私と関係のない名号ではなく私のうえに脈々とはたらく名号であることを示されようとなされたのであります。このように他力廻向を説かれる内容は如来のいのちの現実化ともいうべき世界をさし示そうとされたものであります。この私の我執(自己中心性・私有性)を無限に否定する如来の清浄願心が私の主体となることによってはじめて仏に成ることがはっきりするのであります。
若は因、若は果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就したまへるところに非ざることあることなし(『教行信証』)
といわれるゆえんであります。また
弥陀の廻向成就して 往相還相ふたつなり
これらの廻向によりてこそ 心行ともにえしむなれ(『高僧和讃』)
とうたわれるこころであります。
 ですから、真宗では我執(自己中心性)の混入することのないみ仏の力を純他力とか、絶対他力というのであります。絶対他力といういい方にはいろいろと議論されるところもあるのですが、歴史的背景としては浄土宗鎮西派でいうこの世での念仏は自力で、その自力の念仏によって浄土に迎えられるのを他力というなどという立場を比較的他力というのに対して真宗の立場を絶対他力といったということも考えられますし、また教学的内容としては、自我(自己中心性)の無限否定ということをさし示しているといってよいでありましょう。

「他力」の徹底としての具体的教え

 この徹底した他力の内容を明らかにしたものに「三心釈」と「絶対三法の法門」といわれる教えがあります。
 「三心釈」とは衆生の往生の因として第十八願に誓われた至心・信楽・欲生の三心についての解釈であります。もともと、衆生が往生するための因としての心ですから、それは衆生の三心でなくてはならないのであります。ところが、親鸞聖人は字訓釈というところでは衆生の三心としながら次にそれを解釈して「この心はすなはちこれ、不可思議、不可称、不可説、一乗大智願海の廻向利益他の真実心なり。これを至心と名く」とされ、また「信楽といふは、すなはちこれ、如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」とされ、更に「欲生といふは、すなはちこれ、如来諸有の群生を招喚したまふの勅命なり」と三心ともに阿弥陀如来のこころであるとされています。
 つぎに「絶対三法の法門」について考えてみましょう。
 三法の法門とは、教、行、証の法門であり、その中の行を称名とする場合を相対三法といい、行を名号とする場合を絶対三法というのであります。すなわち、教えによって(教)称名念仏して(行)、仏に成る(証)というのを相対三法といい、教えにより(教)、名号の独用によって(行)仏に成る(証)を絶対三法というのであります。そこで絶対三法の場合は衆生の信心も称名も、往生の因として説かないで仏に成ることの因はすべて名号のひとりばたらきであるというのであります。
 ですから、その場合、私の信や念仏がどこかに散乱してしまったのではなくて、名号のはたらきとしてうけとめるのであります。つまり信心も称名の念仏も南無阿弥陀仏の名号の活動にほかならなかったとうなずくことができるのであります。
 このように真宗では我執(自己中心性)から出た一切のはたらきを無限に否定する仏力のはたらきが主体となることによって救いが成就されるとするのであります。
 このような立場に立ちますから、真宗では廻向といえば如来からの廻向であって、衆生の方からの廻向はないというのであります。これを廻向・不廻向というのであります。親鸞聖人は、念仏には自力の廻向はいらないから不廻向といい、雑行(念仏以外の行)には自力の廻向が必要だから廻向というのだとされ、さらに念仏は如来からの廻向であり、衆生からは不廻向であると徹底されたのであります。
如来二種の廻向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに他力とまふすなり(『浄土三経往生文類』)のことばをかみしめてみたいものであります。
(『他力廻向と私』より90~98頁)




つづく



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