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私たちは、本当に困りはてたときに、
悪人について(3)の続きで、『親鸞聖人と浄土真宗』(中西智海・著)という本から93~97ページの引用です。
「仏」とは
私たちは、本当に困りはてたときに、「もしも神や仏がいるのなら、この願いをかなえてほしい」などといったり、思いもかけぬ不幸や災難に出会ったときに、「神も仏もあるものか」といったりします。また、そうかといえば、「死んだ人」を「仏」と呼んだりする習わしのところもあります。
このように、昔からわが国においては、「仏」を神と同じに思ったり、あるいはご先祖さまや死んだ人といイコールに考えたりしてきました。これはよほど吟味しておかないと、一番大切なことがわからなくなってしまう危険性をはらんでいるのです。
ところでこの世に生き、煩い悩みから離れることのできないわれら、現に罪深く罪重い私を本当にめざめさせ、活かそうというのが阿弥陀仏であると説かれています。いま私たちは、その阿弥陀仏とはどのような仏さまであるのかを明らかにする前に、まず「仏」とはどういう意味かを確かめておきたいと思います。
さて、ひと口に「神」といってもいろいろの種類があって、わが国では「八百万(やおろず)の神」などといわれているぐらいです。一般に「神」というときは、人間の外にあって、人間を超えた力をもち、世界を創造し、宇宙を支配するものということになっております。
そして、もし神の創造物たる人間が神の意志にそぬわぬことをすれば、神の怒りにふれて罰せられることになります。人間は、罪が恐ろしいから神への<祭り事>を行って、神の威力にすがり、祈ることによって神の加護とご利益を期待するのです。このように、人間と世界を創造する権威者(神)をまず立て、その権威者と宗教的契約を結び、人間はその契約を履行し、それへ祈るということから出発するのが、一般の信仰といえるでしょう。
これに対して「仏」とはブッダ(Buddha)釈尊からはじまったことばで、<めざめたるもの><覚者>という意味です。すなわち、本当にことを知りつくし、真理に目を覚ましたものということであります。また、善導大師はその著『観経疏』に「自覚覚他、覚行窮満(自覚覚他して、覚行の満ち窮まる)を仏と名づける」と述べられています。このように、自らがめざめるだけでなく、めざめなき生きとし生けるものをめざめさせるはたらきの窮まり満ちているものが、「仏」という意味なのです。
すなわち「仏」とは、本当のことを知りつくしているということで智慧をそなえたひとであり、生きとし生けるものをめざめさせるということで慈悲のはたらきをもったひとといえましょう。このように「仏」の本質は、「めざめ」であり、「大智」と「大悲」なのです。ですから、ただ「死んだ人」を「仏」というわけにはいきません。めざめなき単なる死者や亡者を、仏ということはありえないのです。
仏教とは、その「仏」に「成る」教えなのであって、この私が、仏に成らせていただく教えであり、みちであります。
ところで、静かに考えてみますと、もし人間に真実の智慧があったならば、いま公害などに悩むことはなかったでありましょう。また、己れのみをよしとする自我中心のこころがなかったならば、戦争もおこらなかったはずであります。つまり人間は、智慧がないばかりに、自我中心のこころから離れることができず、次から次へと問題をかかえては、苦しみ悩まなければならないのです。
だからこそ本当にめざめ、仏に成らなければならないのが、この私であります。まさに仏教の目的は、その仏に成ることです。
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