とどろき / 平成20年7月

 今月の巻頭は“『歎異抄』が説く、2つの抜苦与楽”です。
 昨今の“古典ブーム”で、仏教書が脚光を浴びており、中でも『歎異抄』は、右翼の活動家から左翼の思想家まで、最も広範な読者を持つ仏教書の筆頭だそうです。
 世界の光と言われる親鸞聖人の肉声が、国宝と評される名文で綴られている『歎異抄』は、700年ほど前、親鸞聖人の高弟・唯円(ゆいえん)によって書かれたものといわれています。聖人亡き後、親鸞聖人の仰せと異なることを言いふらす者の出現を嘆き、その誤りを正そうとしたものなので『歎異抄』と言われます。
 その、『歎異抄』第四章にこのようなお言葉があります。
「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」
(第四章)

(「慈悲」に「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の二つがある)
「慈悲」とは
「苦を抜くを『慈』と曰う、楽を与うるを『悲』と曰う」
(教行信証)
と親鸞聖人が言われるように、「苦を抜き、楽(幸せ)を与える」という事です。「抜苦与楽(ばっくよらく)」が仏教の目的ですが、『歎異抄』第四章で親鸞聖人は、苦しみと幸せに二つあることを教えられているのです。
 まず、「聖道の慈悲」とは、生活の不便や困難(苦)を取り除き、命を守り育む(楽)ことで、一刻も早い復興を願って、被災地に義援金や物資を送ることなどがこれに当たります。被害を乗り越えるには、とても大事な働きかけで、人助けと聞けばほとんどのひとがこれを実行します。
 ところが、生活物資や医療だけで、私達は変わらぬ本当の幸福になれるのかどうか、仏教を説かれたお釈迦様は、経典に次のように説かれています。
「田無ければ、また憂いて、田有らんことを欲し、宅無ければ、また憂いて宅有らんことを欲す。田有れば田を憂え、宅有れば、宅を憂う。牛馬(ごめ)・六畜・奴婢(ぬび)・銭財・衣食(えじき)・什物、また共にこれを憂う。有無同じく然り」
(大無量寿経)
 無ければないことを苦しみ、有ればあることで苦しむ。有る者は“金の鎖”、無い者は“鉄の鎖”につながれているようなもので、材質が金であろうと鉄であろうと、苦しんでいることに変わりありません。お釈迦様はこれを「有無同然(うむどうぜん)」といわれ、どんなにお金を手に入れても、仕事で成功を収めても、苦悩の根元を知り、取り除かないかぎり、ポッカリとした心の空洞は満たせないことを明らかにされました。
 苦しみの真因が分からねば、人生苦悩の解決はなく、親鸞聖人は
「生死(しょうじ)輪転の家に還来(げんらい)することは、  決するに疑情を以て所止と為す」
(正信偈)
と、人生の苦悩の根本原因を「疑情ひとつ」といわれています。「疑情」とは「無明の闇」とも言われ、「無明」も「闇」も暗いこと。暗いとは、分からないということです。
 では、何に暗いのか。仏教では「後生暗い心」を無明の闇と言います。後生とは死後のこと、誰もが100%行き着く先です。自分の未来が分からない、底知れぬ不安を、人は皆抱えて生きています。この不安あるままで、何をどんなに手に入れても、心底楽しむことは出来ません。
 そこで、この「無明の闇」(苦)をぶち破って、無限に明るい、楽しい心に生まれ変わらせる(楽)という慈悲が「浄土の慈悲」であり、この抜苦与楽を「破闇満願(はあんまんがん)」ともいわれるのです。苦悩の根元である無明の闇が破られ、無限に明るい楽しい心に生まれさせられるので、「ああ、生まれてよかった」という生命の歓喜が必ず起きると説かれます。
 そのような、とてつもない世界が『歎異抄』には書かれてあり、第七章にはこうあります。
「念仏者は無碍(むげ)の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々」
(第七章)

 弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。  なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、 と聖人は仰せになりました。
 抜苦与楽の仏教の目的を果たすには、まず「命」が大事です。衣食住も必要です。それら生きる手段を与えるのが「聖道の慈悲」であることを明示されているのです。

刹那の美

夫れおもんみれば、人間はただ電光・朝露の夢・幻の間の楽ぞかし。たといまた栄華・栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも、それはただ五十年乃至百年のうちの事なり。
蓮如上人
 雷、朝露、夢、幻といったら、儚いものの代名詞。他にも日本人は、ひらひらと舞い散る桜の花びらや、火葬場の煙を見て無常を嘆いてきました。
明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
親鸞聖人・出家の時に詠まれた歌

散る桜 残る桜も 散る桜
松尾芭蕉

鳥辺山 昨日の煙 今日もたつ 眺めて通る 人も何時まで
 煙といえば、火葬場で死体を焼く時に出るものとして無常を表していますが、一時として同じ形に止まることがありません。そういう意味で、煙もまた儚いものです。
 永遠の命、永続する美を求めるからこそ、壊れゆくものに価値を見出し、心打たれ、大切にする気持ちが生まれてくるのではないでしょうか。現在の一瞬一瞬を大切にしなければ、後で後悔することになる、と心に戒めたいと思います。


 人の命だけでなく、美しいものもまた無常。そんな一瞬の美を描いた作品を集めてみました。
43枚あります。出処はこちら
刹那の美
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とどろき / 平成20年6月

 仏教では、私たちの犯す色々の罪悪をまとめて、「十悪」と教えられています。貪欲、瞋恚、愚痴、綺語、両舌、悪口(あっこう)、妄語、殺生、偸盗、邪淫の10の罪です。
 そして、その「十悪」よりも重いと教えられているのが「五逆罪」、5つの恐ろしい罪です。
 中でも、最初に挙げられているのが親を殺す罪です。
 16歳の少年が金属バットでお母さんを殴り殺したとか、50代の男が年老いた母親を刺し殺したなどという事件が、時々耳に入ってきます。赤ん坊のころは、お乳を飲ませてもらったり、おむつを取り替えてもらったのではありませんか。病気になれば寝ずに看病してもらったり、離れていれば、いつも心配してもらって成長してきたのです。そんな大恩ある親を自らの手で殺すなど、人間の心を持たぬ鬼の仕業ではないかとさえ思われます。  仏教では、このような親殺しの大罪は、最も苦しみの激しい「無間業」であると教えられています。
 こう聞くと、自分には関係ないと思う人が多いと思いますが、
 ところが親鸞聖人は、このように手にかけて殺すばかりが親殺しではないのだよと、
 親をそしる者をば五逆の者と申すなり
(末灯鈔)
と言われています。親をそしるのも五逆の罪なのです。「早く死んでしまえ」などと言うのは無論ですが、「うるさい」「あっちへ行け」などとののしるのも、親を殺しているのです。  また仏教では、心を最も重くみられます。一つ屋根の下に暮らしておりながら、ろくに口もきかず、食事も別々に取り、呼ばれても聞こえないふりして親を邪魔者扱いしているのは、心で親を殺しています。世話を嫌って、「邪魔だなあ」「いい加減に死んでくれたら」という、とても他人には言えない心が噴き上がってこないでしょうか。  数年前、女手一つで、4人の男の子を大学まで出させ、一流企業に入社、結婚させたお母さんの悲劇が紹介されていました。その4人の兄弟夫婦が集まり、年老いた母の面倒を誰が見るか、ということで深夜まで激論したが、誰一人として面倒を見ると言う者がいなかった。その一部始終を隣の部屋で聞いていた母親は、翌朝、電車に飛び込み、自殺したのです。手にかけて殺さずとも、私たちは心でどれだけ親を殺しているか分かりません。
(『言葉の宝石 正信偈』p.71~より)

 体だけで考えれば、親を殺した経験のある人はごくごく稀でしょう。しかし、口や心で、生まれてから一度も親を犯したことがない、と胸を張って言える人はどれだけいるでしょうか? 残念ながら私は数え切れないほど心で「うるさいなあ」と思ってきました。今思えば恐ろしい罪を犯してきたなぁ、、、いや、今でも縁がきたら、、、と反省です。
 反対に
 中国の蒋介石は、母の死後、自分の誕生日には朝食を取ろうとしなかったといいます。 「子の誕生日は、母親にとっては、産みの苦しみを経験した日でもある。子としては、ただ、誕生を喜ぶだけでなく、母の苦痛をもしのばなくてはならない。そのために食を絶ち、母のことを思っているのだ*
(『親のご恩の話』p.36より)

と紹介されていますが、確かに自分の誕生日は母の苦痛を偲ぶ日とさせていただきたいと思います。
*サンケイ新聞社『改訂特装版 蒋介石秘録』上 サンケイ出版

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