(法話)生きることと、死ぬ彼方にも光を与えてくれるような言葉が「往生」です。 @八王子 大恩寺 2011.07.10

7/10、八王子の大恩寺へ聴聞に行ってきました。ご講師は天岸浄圓先生です。

以下、その時の内容。

大恩寺


 故法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしこと確に承り候ひし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるを御覧じては「往生必定すべし」とて笑ませたまひしを見まゐらせ候ひき、文沙汰してさがさしき人の参りたるをば「往生はいかがあらんずらん」と確かに承りき、今にいたるまで思ひあはせられ候ふなり。
初盆を迎え、亡くなられた方を偲ぶご縁に恵まれましてお話させていただきます。

「ご縁」というのは英語に翻訳しにくい言葉だそうです。「原因」という言葉は説明できても、「ご縁」は訳せないと聞きます。皆さんも「ご縁」を現代語訳できますか?「この度は不思議なご縁で」と言いますでしょ?「ご縁」という言葉は色々なところで使われますが、「一言二言では説明できないけど、色々なこと、条件が重なり合い、今の状態に至りました」ということでしょう。何か一つだけを原因として確定するのではなく、今日の日があるのは言葉で尽くすことの出来ない色々なつながりがあった、説明しきれませんがそのお陰でこういう出会いが出来た、という幅の広い、心が豊かでないと感じ取れない言葉です。

仏教というのは面白い宗教で、人間の持っている受け止め方のカラクリをハッキリさせるということがあります。話をしているのは私一人、しかも一つの話しか出来ません。しかし、これをお聞きくださる皆さんは、70人いたら70通りに聞かれるのです。皆同じ事を聞いているのですが、意識を通して聞いているのですから、「長いな~」と感じられる方もおられれば感じられない方もおられます。しかし、自分の感じ方しか分かりませんから、他人も「長いな~」と感じているのだろうな~と感じているのです。10人おれば10通りの聞き方をし、そして自分の聞き方が正しいと錯覚に陥るということを私たちはやっているのです。私の聞いている話と隣の人が聞いている話は同じ話なのですが、感想なると全く違うようになるのです。時として、私の言ったことのないことまで「確かにそう聞いた」と言われる方もあります(笑)。

今お話のことを言いましたが、見ているものも書いているものも、味わっているものも、さわっているものも、受け止めているもの全体が、そういうかたちの中で私たちはで見たり聞いたり、香りを嗅ぎ、味わい、接し、意識をして生活しているのです。

だから、いっぺんに物事が変わることがあります。例えば「この人は好きだ」という人がいるとします。なぜかというとこの人は私に優しいから。私にとって良い人だから。ところが、何かの機会でその人が私の胸にグサッとくることを言って私が聞いてしまった。その方が本当に良い方であるとすれば、私がその言葉を聞いたとしてもこの方は良い方のはずです。ところが、聞いた途端に嫌いになってしまいますね。では、それまで好きだった人はどこに行ってしまったのでしょう。そしてまた「ごめんね、言いすぎました。許してね」と言われたら、また好きになる。

このように、私が感じたものが、感じたままに、そこにいるように私たちは錯覚するのです。

仏教は、物の受け止め方を極めて大切にする教えです。

私にとって都合の良い人は良い人、私にとって都合の悪いは悪い人。その人が良い人か悪い人かを判断するのは私です。そして、意識の中では私は正しく判断する者、出来る者、となっています。

そのことを、お経の言葉でお話したいと思います。

最初に讃題を言いましたが、それは親鸞聖人の書かれたお手紙の中の一節です。
 故法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしこと確に承り候ひし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるを御覧じては「往生必定すべし」とて笑ませたまひしを見まゐらせ候ひき、文沙汰してさがさしき人の参りたるをば「往生はいかがあらんずらん」と確かに承りき、今にいたるまで思ひあはせられ候ふなり。
難しいですね。これは、言葉遣いが難しいというのもありますが、仏教というのは本来常識に合わないようなことを言われているので、その意味でも分かりにくくなっています。

先ほどお勤めされたときに、「法名・釈○○、俗名・○○」と聞かれたと思います。「釈」とは、お釈迦様の教えを聞く、お釈迦様の一族になりました、ということです。いうなれば苗字のようなものです。お釈迦様一族。血のつながりではなく教えのつながりで。だから法名は本来、亡くなられた方だけに付けるのではなく、生きておられる方にもお付けします。
「おかみそり」。毎日、京都の本願寺ではおかみそりという仏事が行われているのですが、「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」といってカミソリをあてられます。「私は仏さまを拠りどころとしてこの人生を生きます。私は仏の教えを拠りどころとして物事の判断をしてゆこうと努めます。私は信者の一人として教えに泥を塗らないように責任感を持ってこの一生を生きてゆきます」というお約束の言葉が「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」です。
ここには「私を拠りどころにします」という言葉がありません。今まで自分を拠りどころにしていた生活と決別します、という意味でカミソリが当たるのです。お坊さんになる真似事としてしているのではありません。もちろん、「私はそういう生き方をしている者です」ということをハッキリさせるためにお坊さんは頭を剃るのですが。そして特別な袈裟を着ます。
袈裟には筋が入っています。それは、小さな使わなくなった生地をパッチワークして縫われているからです。だから一銭も使われません。本来袈裟はお金のかからないものです。きらびやかなイメージをもたれているかもしれませんが、袈裟は本来そういうものです。雑巾の大きいバージョンだと思われたら良いです。
この袈裟を着ることによって、「私は仏と、教えと、信者としての責任を持って生きてゆきます」ということを人々に、姿の上でアピールしているのです。それが、お坊さんの頭を剃った姿なのです。私たちは頭を剃る必要はありませんが、このことを心に思い定めるために、カミソリが当たるのです。

そして私を中心にした考え方、、、先ほど話しました判断力、それが自分中心であるということをしっかり理解するのです。自分中心とした判断力を止めなさい、といっているのではありません。止めたら大変なことです。理解している、ということです。それぞれがそれぞれの経験で、自分を中心に、自分の経験を基にして判断してゆくのは極めて誤りが多くあることを自覚するということです。そして、正しい物事の判断の拠りどころは仏さまとその教えである、と努力する人を仏教徒といいまして、お釈迦様の一族ですから「釈」という法名が付けられるのです。

俗名とは、単に生きていたときの名前というのではありません。戸籍上の名前ということです。生きているときの名前が俗名で、死んだ後の名前が法名、というのでではありません。死んだ後でも、個・○○さん、と言うじゃないですか。俗名は法律上の名前なのです。法名は生きても死んでも法名、俗名は生きても死んでも俗名です。




そしてもう一つ。「○月○日に往生されました」というご案内がありましたね。皆さん、往生という意味、分かっておられますか?関西ではよく使います。「立ち往生」とか「えらい往生したんや。かなわんかったで」と。大木こだま・ひびきという漫才芸人は「こんなん連れて漫才してます。往生しまっせ」と言って漫才していました。

今は死んだときや困ったときに「往生した」と使われますが、往生とは「生まれて往く」です。

そう受け止められますか?なんで?
亡くなられたんでしょ?なのになんで「生まれて往く」と言われるのですか?
亡くなられた方を「生まれて往く」と思えますか?


思えないのです。
生まれてきたら、おしまいは死ぬのです。だから「亡くなった」と聞いたら、「えええ!亡くなったんですか!?」とびっくりはしますが「あぁ、そうだったんですか。生まれてきたんですから、いずれはそうですよね」と受け入れますね。
もし「生まれさせていただきました」と訃報の連絡したらどうなりますか?「えええ!?生まれた?」とびっくりされます。

この「往生」という言葉は重要な意味を持っているのです。ただし、私たちの日常の意識では理解できない、納得できないことだと思います。

だから親鸞さまはこう言われるのです。「私は若い頃、先生である法然上人からこんなことを聞いたことがあります。浄土ということを『はぁ~そういう風に聞くべきなんだな』と理解しようとするなら、謎を解こうとするなら、愚者になりて往生するということを聞きました。それと、難しい言葉は何も理解できないけれども素直に念仏する人を見て法然さまは、『あの方達、間違いなく仏様のところへ生まれて往きますよ』とニコッと微笑んでいらっしゃいました。また逆に、色々なことを知っていて、勉強も出来て、難しいことを言う人がやってきたら、陰の方で『あれ、大丈夫かね』と心配そうに見てらっしゃいました。50年経った今もまた、昨日のことのように思い出されます。」先ほど読んだ文章はこういうことです。

「愚者になりなさい」というと、失礼なことを言ったように思われるかもしれませんが、法然上人が言われたことです。大事なことです。愚者とは、通知表の点が悪いことではありません。漢字を知らない、英語を知らないことではありません。

愚者の反対は賢者。

賢者と愚者の違いは、判断力が正しいか正しくないか、です。「愚者になりて」とは、自分の判断力が正しいと錯覚してはダメですよ、ということです。初めに、「皆さんの判断力は皆さんの経験によってご自分だけが考えている判断力ですよ」と言いました。私の判断力で何でも分かろうとする思いは、ある意味では傲慢というのです。思い上がりというのです。

なぜ仏さまに手を合わせるのですか。単純に考えて、私よりも仏さまの方が立派だからです。そうじゃないですか?「仏さまとは何か」という話は別の機会に譲るとして、少なくとも常識として、世間一般的な考え方としても、仏さまの法が私よりも思いがけなく尊く立派で素晴らしい方であるから、手を合わせるんでしょ?

私たちが「亡くなられた」ということを、仏さまは「生まれて往く」と仰いました。起こっていることは同じです。要するに、呼吸が止まって心臓活動が止まって、脳の活動が停止してしまった。それを私たちは「死んだ」、仏さまは「生まれて往く」と言っている。私たちは「生まれたら死ぬ」と思っています。
これは人間がつけた名前(言葉)なのです。人間の常識からすれば「生まれたら死ぬ」といったら驚きはするけど驚かない。しかし仏さまの常識からしたら「生まれた者は生まれて往く」のです。

何処へ?
浄土へです。仏となって。

そう言うと常識に合いませんから、大阪弁で言うと「生まれたらが生まれて往く?そんなアホなことがあってたまるかい?」というのがだいたいの受け止め方です。それは何故かというと、「生まれ者は死ぬ」というのが私の正しい判断ですから。だから私は賢い方になっているのです。

そして「生まれたら生まれて往く」という私の判断力に合わないことを言う仏さまは愚かな者。「誰や?そんなアホなこというてるのは?」

この判断のひっくり返り。仏さまに手を合わせている者が、仏さまに「馬鹿なことを」とは言えません。そうなると、私の考えていることが正しくないことであって、仏さまが言われることが実は正しいことである、と聞くことができるような心の転換を親鸞という人は私たちに語りかけているのです。

皆さんがお別れになったと称している方は、仏さまからは、生まれて往かれた方なのです。だからお寺では「往生なさった」と言うのです。

そして「生まれて往く」ということは新たな誕生。仕事があるんですよ。その覚悟で生きていきなはれ。『正信偈』には、まさに往生すべき方が往生されたらどうなるか、書かれてあります。
遊煩悩林現神通 入生死園示応化
これがお仕事です。林のように多くの人々が、それぞれに煩いを持ち、それぞれに悩みを抱えて生きています。その林のような悩みや煩いや痛みの中に遊び入る。これから皆さん、遊ぶんですよ。遊びの特権は子供。子供はおもちゃを沢山出して遊びます。ところが大人になると遊べなくなります。大人になると「片付けて欲しいものだけ出して遊びなさい」と訳分からんこと言いますね。それは遊びではありません。遊びはい~っぱい並んでいる中で遊べるのです。そして朝から晩まで遊んでも疲れません。子供は「疲れた」と言いません。「疲れた」と言ったらもう子供じゃないです。遊びは疲れません。効率をいわないから。これだけのことをしたらこれだけもらえるな、と考え出したら仕事になります。そして疲れるのです。
疲れを知らない子供のように、人々の悲しみや悩みや煩いや痛みの中に入って、煩いを取り除き、悩みを共にし、悲しみを共にし、その人々を本当の幸せに導いてゆくように、不思議な力を持って、その方々と共に生き、その人を支え、その人を守ってゆくように、あらゆる人の上に生きて往くことを往生と呼ぶのだそうです。

これが、私たちが「死んだ」と言っていることの実態です。「死んだ」なんて言うから先が無いのです。「死」という言葉はそういうことです。そこから先はもう無い、と。だから最近のお年寄りは遊ぶことばかり考えているのです。「今のうちに行っとかなきゃ」「今のうちにやっとかなきゃ」。先がないと思っているからです。大丈夫。これから先、いやと言うほど遊べますから。なぜならお金に換算しないから。言い換えれば礼を言われない。遊んで礼は言われないでしょ。

自分の意識であらゆる人々の幸せを実現できるように、命一杯、無限に生き続けて往くことを「仏さまとなって往生する」というのです。そうなったら、死ぬことはつまらんことではなくなってきます。悲しいことであり、辛いことではあります。別れが。しかし、死に別れることが単につまらんことでもなければ、単に悲しいことでもなくなります。やがて私を導き、あらゆる人々を支えてくださる。そういう方を仏さまというのです。皆さんはまだ違いますよ、自分の幸せしか考えていませんから。その、自分の幸せしか考えられないことが恥ずかしいこととなって、あらゆる人の幸せを実現してゆくことを自らの幸せとするような転換期。それが往生という言葉なのです。

今日お帰りになられ、お位牌をお仏壇にお納めになられるかと思いますが、改めて「往生なさいましたね」と仰ってください。「私だけでなしに、あらゆる人々の痛み、悲しみを支えるようなお方におなりになられましたね」と申し上げて差し上げてください。そうすると「おー、よう分かってくれたな」と声が心に返ってくるかもしれませんよ。

単に悲しみだけでなく、単に辛いだけではない。生きることと、死ぬ彼方にも光を与えてくれるような言葉が「往生」です。それは、私の考え方だけにこだわらず、仏さまの言葉に素直に耳を傾けて、仏さまの言葉を真実と受け入れると、そういう心の地平が初めて開かれるのですよ、と親鸞聖人は私たちに言い残していらっしゃるのです。





(法話)私たちは仏さまの外に出れるものではないのです。@柏市 西方寺 2011.07.03

7/3、千葉県柏市の西方寺へ聴聞に行ってきました。
以下、松月博宣師から聞かせていただいた内容です。

2011.07.03 西方寺 2011.07.03 西方寺


他力本願とは、「他人のふんどしで相撲をとる」というように、人の力を借りるという風に思われていますが、そうではありません。他人のふんどしで相撲を取るなんて、汚いですよ(笑)

梯實圓という方は、他力のことを「利他力」だと仰ります。「利他」の反対語としては、「自利」という言葉があります。仏教でいう最高のご利益はさとりのことですが、自分がさとりを開くことが「自利」。その反対は人さまをさとらせる働きです。阿弥陀さまが人さまを悟らしめる働き、それが「利他」です。だから親鸞聖人は
他力とは如来の本願力これなり
と仰いました。

他力は今、皆さんに働いておられます。実感していますでしょうか? 皆さん、好きで進んでお寺にくる人でしたか? 進んでお念仏を申す人ですか? どう見ても違いますなぁ(笑)それが、皆さんこうして集っておられる。これは如来さまの力が働いている証拠です。

他力とは、探さなくても良いんです。こうして参らせて下さった働きが他力なんです。

話を聞いて、何かをつかんで仏にになろうとしているとしたら大間違いです。それは親に抱かれて親探ししているようなものです。すでに、お救いの手の中にいるんです。ああ、そうだったんですね、と気づかせて頂くのです。だから「目覚め」と言うのです。

だから、ここにいることを喜びましょうよ。

(休憩)

凡夫を仏にするという阿弥陀さまは、どんな仏さまか。

5月、新聞にこういう投書がありました。「頑張ろう」「頑張って」より、「大丈夫」「心配ない」と言ってほしい、と。震災にあわれた方は、十分頑張っているのです。

『般舟讃』中に、こういうお言葉が、出ています。
仏身円満無背相 十方来人皆対面
阿弥陀さまのお姿には背中の姿がない。だから十方より来る人皆、面に向かっている、ということです。紙をくる~と(筒状に)すると、どこから見ても表、そんな状態です。

2011.07.03 西方寺


この言葉を聞いたとき、祖母が語ってくれたことを思い出しました。祖母はお念仏を大事にする人でした。寺の聴聞から帰ってきて、私を仏壇の前に座らせ、阿弥陀さまの姿を指差し、「阿弥陀さま、後ろになにか担いでいるやろ? あの光背、何のために担いでいるか分かる? あれは、あなたに背中を見せないという仏様の心なんだよ。だから、どんなことがあってもあなたを見捨てないんだよ。お礼を言おうね。なんまんだぶ、なんまんだぶ」。仏像の専門家は、そういうことは言わないでしょうが、私にはそのばあちゃんの話が有難いです。

ばあちゃんとは、そういうことを教えるためにいるんです。「女性」とは、辞書をひくと「子供を産む機能のある性」、そして生物学的には「子供を産む機能を失ったら速やかに亡くなる」とあります。ところが、子供を産む機能を失っても生きているのはゴンドウクジラと人間だけです。そこで生物学者が、なぜ人間とゴンドウクジラだけは生き延びているのか、調べてみたそうです。すると、ゴンドウクジラは生んだ子の生んだ子供の面倒をみるそうです。つまり、ばあちゃんは、孫育てをするために生きている。それが「ばあちゃん仮説」です(笑)

皆さん、仏さまのことをお孫さんに伝えてあげてください。

仏さまは、全ての、生きとし生けるものに向き合って下さいます。背中を見せません。背中を向けるとは相手を見捨てるということです。

人は、誰からも見捨てられたときに、生きる力を失います。その中、ただ一人でもあなたを見捨てませんよ、という人があれば生きて行けます。

良いときは集ってくれるけど、都合が悪くなると離れてしまうのが人の世の常です。私がどの様な有様、人格で生きようとも、あなたを見捨てないぞ、という人を私たちは求めているはずです。

それが阿弥陀さまです。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀と名付けたてまつる
これを親鸞聖人は「ひとたびとりて永く捨てぬなり 逃ぐる者を追わへとるなり」と読まれました。
「ひとたびとりて永く捨てぬなり」「阿弥陀」とは、「ア・ミター」というのが源語です。英語では、an(無理)meter(量)です(無量)。我々は時間の制約の中で生きています。それを寿命と言います。その、寿命に限界のあるものを包み込むのが寿命無量、現代の言葉でいうと永遠の仏ということです。
「逃ぐる者をおわえとるなり」。逃げて行く者までも追っかけて捨てない。これは空間の広がりを表します。「アミター・バー」これを「無量光」と訳しました。永遠に対し、無限を表します。
阿弥陀さまとは、永遠で無限の仏さまです。

孫悟空がお釈迦さまの手の中にいる話を思い出して下さい。私たちは仏さまの外に出れるものではないのです。

その仏さまが「南無」して下さるのです。「まかせなさい」ではなく「まかせます」です。「南無阿弥陀仏」とは、そのまま救う、という仏さまのお力が働いているのです。
これが親鸞聖人の味わいです。


最後に私の味わいを述べさせていただきます。
昼、うなぎを食べました。うなぎを摂取したんです。そうしたら、
うなぎを摂取することにより、うなぎが私になるのです。牛を食べたら牛が私になるんです。鶏を食べたら鶏が私になります。豚を食べたら、、、それは食べ過ぎですが(笑)、うなぎを食べたらうなぎか私になるのです。

他人事というのが一切なくなる世界です。阿弥陀さまが私を他人事と思われない世界に包まれた世界が摂取不取です。

お東の曽我量深という方はこう言われました。
如来は我なり。されど、我は如来に非ず。如来、我となりて我を救い給う
如来が私を食って下さって、私を仏にして下さる。それが摂取不取ということです。

本当に寄り添うことのできるのが阿弥陀さまです。
被災地で、次のスタート地に立てないで涙を流している人、また、そういう人を忘れてしまう私にも、寄り添うてくださるのが阿弥陀さまです。

人間には限界がありますが、それを知りつつ、如来さまに共々寄り添うて下さる私たちと、できる限りのことをさせていただくのが復興支援になるのだと思います。

それを忘れると上から目線となってしまうのです。






紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(2)

紅楳英顕 / 「現代における異義の研究 伝道院紀要24号 – 本願力回向」(1)の続きです。



目次
  1 はじめに
  2 第一章 宿善論について
    2.1 一 高森親鸞会の宿善論
↓↓今回はここから↓↓
    2.2 二 宗祖における宿善論
    2.3 三 蓮如上人の宿善論
↑↑今回はここまで↑↑
    2.4 四 高森親鸞会の宿善論の問題点
    2.5 五 真宗先哲の宿善論
    2.6 む す び
  3 第二章 二種深信についての問題
    3.1 一 高森親鸞会の問題点
    3.2 ニ 江州光常寺の主張との比較
    3.3 三 後生の一大事についての問題
    3.4 む す び




二 宗祖における宿善論

 宗祖における宿善に関する文としては、『教行信証』総序には
遇たま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(真聖全の二の一)
とあり、『浄土文類聚妙』には
遇たま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ(真聖全二の四四七)
等とある信をえたならば遠く宿縁を慶べとある文(a)、又『唯信鈔文意』には
過去久遠三恒河沙の善根を修せしめしによりて、今、大願業力にまふあふことをえたり、(真聖全二の六三四)
とあり、又『御消息集』には
世々生々に無量無辺の諸仏菩薩の利益によりて、よろずの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆへに、曠劫多生のあいだ諸仏菩薩の御勧めにより、今まうあいがたき弥陀の御誓いにあいまひらせて候、御恩を知らずして、よろずの仏菩薩をあだにまふさんは深き御恩を知らず候うべし。(真聖全二の七〇〇)
とあり、又『正像末和讃』には
三恒河沙の諸仏の出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなはで流転せり。(真聖全二の五一八)
等とある過去の善根について述べている文(b)。そして『浄土和讃』に
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり。(真聖全二の四八九)
とあり、又
定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する。(真聖全二の四九三)
等とある獲信のために聴聞(聞法)や称名にはげむべきことをすすめているのかとも思われる文(C)等を挙げることが出来よう[8]
 (a)においては、獲信したならば遠い過去から現在に至るまでの宿縁を慶ぶべきことが述べられているわけであるが、これに関連して取り挙げておかねばならないことは覚如と唯善(覚如の父覚恵の異父弟)の間で行われた宿善必要説と宿善不必要説である。
このことは、覚如の第二子従覚の『慕帰絵詞』や、覚如の弟子乗専の『最須敬重絵詞』に述べられている。即ち覚如が宿善開発の機が善知識に値って教えをきけば、信心歓喜して報土に往生するのであると宿善必要説を主張したのに対して唯善は本願に十方衆生とちかってあるのだから宿善の有無には関係なく往生することが出来るから不思議の大願なのであると述べて宿善不必要説を主張したのである。覚如はこれに対して『大経』の「若人無善本、不得聞此経、清浄有戒者、及獲聞正法(中略)宿世見諸仏、楽聴如是教」の文、更に善導の『礼讃』の「若人無善本、不得聞仏名、溝慢弊懈怠、難以信此法、宿世見諸仏、則能信此事」の文により、宿善が必要であることは経釈共に歴然であることを示す。唯善はこれに対し、それならば念仏往生ではなくて宿善往生ではないかと非難するのに対して、覚如は宿善によって往生するというのなら宿善往生というのであろうが、そうではなく宿善の故に善知識にあって信心歓喜する時に往生決定し定聚に住して不退に住するというのであるから宿善往生をいっているのではない[9]、と述べている。
『最須敬重絵詞』に
教法にあふことは宿善の縁にこたへ、往生をうくることは本願の力による、聖人まさしく遇獲信心遠慶宿縁と釈し給ふうへは、余流をくみながら、相論におよびがたきかと云々。(真聖全三の八四五)
とあるように、宿善必要説を主張する覚如がここで指摘しているように宗祖の言葉に「遇獲信心遠慶宿縁」、「遇獲行信遠宿縁」とあるのであるから、宗祖も宿善必要説の立場であったものと考えるのが妥当であろう。
 次に(b)についてであるが、これらは宗祖が自身の過去における善根について語っているものであり、『唯信鈔文意』の「過去久遠三恒河沙の善根を修せしめしによりて今、大願業力にまふあふことをえたり」とある文などは過去の善根によりて大願業力にあふことをえた、という宿善が自力によるものとすることを述べているようにみえるものである。
このことは、『教行信証』「信巻」至心釈に
一切群生海、無始より己来、乃至今日今時に至るまで機悪汚善にして清浄の心なく、虚仮諮偽にして真実の心无し、(真聖全二の六二)
とあるものや、信楽釈の
然るに无始より己来、一切群生海、无明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦論に繋縛せられて、清浄の信楽无し、法爾として真実の信楽无し、(真聖全二の六二)
とある文や、更には「信巻」引用の「散善義」の
自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より己来、常に没し常に流転して出離の縁あることなし。(真聖全二の五二)
等とある「曽無一善」「無有出縁」と語っている言葉と矛盾するように感じられる。しかしこの点については(b)の次の文である。『御消息集』に
「世々生々に無量無辺の諸仏菩薩の利益によりて、よろずの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆえに、曠劫多生のあいだ、諸仏菩薩の御勧めによりて、今まうあいがたき弥陀の御誓いにあいまひらせて候」
とあり、『正像末和讃』には
「三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにありしとき、大菩提心おこせども、自力かなはで流転せり(真聖全二の五一八)
とあるように、過去に修した自力の善の功徳によって今大願業力にあったというのではなく、過去に修した自力の善はあくまでも捨てものとするのであり、その善根の功徳によって今大願業力にあうことが出来たとする宿善自力説を称えるものではないことが明らかである。
 次に(c)であるが『浄土和讃』に「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきくひとはながく不退にかなふなり」とあるのは聴聞(聞法)をすすめているものである。又「定散自力の称名は果遂のちかひに帰してこそ、おしえざれども自然に、真如の門に転入する」「信心のひとにおとらじと、疑心自力の行者も、如来大悲の恩を知り、称名念仏はげむべし」であるが、この二首については、古来一部の学者によって獲信のための信前称名を策励するものとされて来たものであり、現在もそれを主張する人もいる[10]
 先ず「たとひ大干世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなを聞く」の聞くであるが、宗祖において「聞」とは「信巻」には
聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し、是れを聞と日ふ也(真聖全二の七二)
とあり、又『一念多念文意』には
きくといふは、本願をきゝてうたがふこゝろなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(真聖全二の六〇四)
等とあるように聞とは信心をあらわすものであり、信心とは「本願力回向之信心也(真聖全二の七二)とあるように他力回向の信心であるから、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞く」という表現ではあっても決して自力の意ではなく、他力の意に他ならないのである。
又、次の和讃の「定散自力の称名」とある真門(第二十願)の称名であるが、宗祖は「化巻」真門釈には
凡そ大小聖人、一切善人、本願の嘉号を以て己が善根とするが故に信を生ずること能はず、仏智を了らず。(真聖全二の一六五)
とあるように「本願の嘉号を以て己が善根とする」真門念仏を修していては信ずることは出来ないことを述べ、又『疑惑和讃』(真聖全二の五二三以下)では真門念仏を厳しくいましめている。このような点から真門念仏をすすめる意が宗祖にあったとは考えられない。更に、「化巻」三願転入の文には
然るに今、特に方便の真門を出でて選択の願海に転入せり、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂之誓良に由へ有る哉。(真聖全二の一六六)
とあるが、ここでいわれている「果遂の誓良に由へ有る哉」とは、宗祖が願海(第十八願)に転入した後において、自己を第十八順に転入せしめた果遂の誓(第二十願)に対する感謝の意の表明である。従って「果遂のちかひに帰してこそ、おしへざれども自然に真如の門に転入する」とある文の意は未だ第十八願にはいりえず、定散自力の心を離れえないままで念仏しているような人でも、果遂の誓いによって自然に真如の門(第十八願)に転入せしめられるのであると述べて、果遂の誓の徳を讃えているのであり、決して定散自力の称名の称功を主張しているものではない。又「如来大悲の恩を知り、称名念仏はげむべし」という文であるが、宗祖においては如来大悲の恩は信を得ることによってはじめて知り得るものとされている。
即ち『教行信証』「総序」には
真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳深きことを知んぬ。(真聖全二の一)
とあり、「化巻」三願転入の文には
爰に久しく願海に入りて深く仏思を知れり。(真聖全二の一六六)
とあり、『正像末和讃』には
釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ。(真聖全二の五二〇)
等とあるように「如来大悲の恩」とは、信によってこそ知られるものであると述べられており、又「化巻」真門釈には
真に知んぬ、専修にして雑心なる者は、大慶喜心を獲ず。故に宗師は彼の仏恩を念報することなし、業行を作すと雖も心に軽慢を生ず(中略)と云へり。(真聖全二の一六五)
と、未だ第十八願の信のない真門念仏の人には仏恩はわからないとあるように、獲信することによってこそ「如来大悲の恩」は知りうるとするのが宗祖の立場である。従って「如来大悲の恩を知り称名念仏はげむべし」ということは、信を得て如来大悲の恩を知り、そして報恩の念仏にはげむべきことをすすめているのであり、決して信前の信を得るための自力の念仏の称功をみとめそれをすすめているのではない。このように「定散自力の称名は……」の称名も「如来大悲の恩を知り称名念仏にはげむべし」の称名も、ともに獲信のための自力念仏をすすめているのではないことは明らかである。従ってこれらの文は宿善自力を意味しているのではないのである。
『高僧和讃』に
釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便しわれらが无上の信心を 発起せしめたまひけり(真聖全二の五一○)
とあるようにわれらの信心の発起は決して自力によるものではなくすべて釈迦弥陀の善巧方便によるものだとする宿善を他力とするが、宗祖の立場であったものと考えられる。

三 蓮如上人の宿善論

 蓮如上人は宿善についての見解を諸処に述べているが、獲信の因縁を示して『御文章』に「五重の義」をたてている。即ち、
これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずば往生はかなふべからずとみえたり(二の一一、真聖全三の四四二)
とあるように、第一に宿善を挙げ、我々の往生のために欠くべからざるものとしている。又、
この光明の縁にあひたてまつらずば、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなおるといふことは、さらにもてあるべからざるものなり、しかるに光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふこといますでにえたり。(御文章二の十三、真聖全三の四四五)
とあり、又
されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。しかれば念仏往生の根機は宿因のもよほしにあらずば、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。(御文章四の一、真聖全三 の四七五)
等とあるように、獲信のための宿善が欠くべからざるものとして重視されている。
 宗祖においても聴聞(聞法)は勧められるところであったが、蓮如上人においても『蓮如上人御一代記聞書』には
仏法には世問のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべき様に思ふ事、浅間敷ことなり。仏法には明日といふ事はあるまじき由の仰せに候。「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名を きく人は、ながく不退にかなふなり」と『和讃』にあそばされ候。(真聖全三の五六九)
とあり、又
いかに不信なりとも、聴聞を心にいれまうさば、御慈悲にて候間、信をうべきなり。只仏法は聴聞にきはまることなりと云云。(蓮如上人御一代記聞書一九三、真聖全三の五七八)
等とあるように聴聞にはげむことをすすめるのである。しかし乍ら、これも宗祖の場合と同様にはげむことによって、それが宿善となって信が得られるという宿善を自力によるとすることを意味しているのではない。即ち『御文章』に
おほよそ当流には一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願の我等をたすけたまふことはりをきゝひらくことは、宿善の開発によるがゆへなりとこゝろえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこゝろうるが、すなはち平生業成の義なり。(一の四、 真聖全三の四〇六)
とあるように、宿善開発が自力によるところでなく、仏智他力によるところであると述べ、又
この光明の縁にもよほされて宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方によりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。(御文章二の一三、真聖 全三の四四五)
とあるように、光明の縁にもよほされて宿善の機あり、という宿善を他力とする立場をとっていることが明らからである。又『蓮如上人御一代記聞書』には
宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善有難と申がよく候由仰られ候。(二三三、真聖全三の五九〇)
とあるように、宿善は有難いものであると述べていることも、決して宿善は自力によるものではなく、仏智他力によるものであるとする意が述べられているものと窺うことが出来よう。
 又、存覚上人も『浄土見聞集』に
聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、きゝてうたがはず、たもちてうしなはざるといふ。思といふは信なり、きくも他力よりきゝ、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり。(真聖全三の三八一)
と「きくも他力よりきゝ」と述べているように、聴聞することもすべて仏力願力によるものとし、自力によるところのものとはしないのである。



(脚注)

  1. (↑)『歎異抄』第十三章の宿善については、『歎異抄』が宗祖の直接の著述ではないことと、そこにでてくる宿善は獲信に関係ないものであるので取り挙げない。
  2. (↑)真聖全三の七八五。
  3. (↑)信楽峻麿氏「親鸞における信心と念仏」(真宗学45・46)





つづく





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