7/10、八王子の
大恩寺へ聴聞に行ってきました。ご講師は天岸浄圓先生です。
以下、その時の内容。
故法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしこと確に承り候ひし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるを御覧じては「往生必定すべし」とて笑ませたまひしを見まゐらせ候ひき、文沙汰してさがさしき人の参りたるをば「往生はいかがあらんずらん」と確かに承りき、今にいたるまで思ひあはせられ候ふなり。
初盆を迎え、亡くなられた方を偲ぶご縁に恵まれましてお話させていただきます。
「ご縁」というのは英語に翻訳しにくい言葉だそうです。「原因」という言葉は説明できても、「ご縁」は訳せないと聞きます。皆さんも「ご縁」を現代語訳できますか?「この度は不思議なご縁で」と言いますでしょ?「ご縁」という言葉は色々なところで使われますが、「一言二言では説明できないけど、色々なこと、条件が重なり合い、今の状態に至りました」ということでしょう。何か一つだけを原因として確定するのではなく、今日の日があるのは言葉で尽くすことの出来ない色々なつながりがあった、説明しきれませんがそのお陰でこういう出会いが出来た、という幅の広い、心が豊かでないと感じ取れない言葉です。
仏教というのは面白い宗教で、人間の持っている受け止め方のカラクリをハッキリさせるということがあります。話をしているのは私一人、しかも一つの話しか出来ません。しかし、これをお聞きくださる皆さんは、70人いたら70通りに聞かれるのです。皆同じ事を聞いているのですが、意識を通して聞いているのですから、「長いな~」と感じられる方もおられれば感じられない方もおられます。しかし、自分の感じ方しか分かりませんから、他人も「長いな~」と感じているのだろうな~と感じているのです。10人おれば10通りの聞き方をし、そして自分の聞き方が正しいと錯覚に陥るということを私たちはやっているのです。私の聞いている話と隣の人が聞いている話は同じ話なのですが、感想なると全く違うようになるのです。時として、私の言ったことのないことまで「確かにそう聞いた」と言われる方もあります(笑)。
今お話のことを言いましたが、見ているものも書いているものも、味わっているものも、さわっているものも、受け止めているもの全体が、そういうかたちの中で私たちはで見たり聞いたり、香りを嗅ぎ、味わい、接し、意識をして生活しているのです。
だから、いっぺんに物事が変わることがあります。例えば「この人は好きだ」という人がいるとします。なぜかというとこの人は私に優しいから。私にとって良い人だから。ところが、何かの機会でその人が私の胸にグサッとくることを言って私が聞いてしまった。その方が本当に良い方であるとすれば、私がその言葉を聞いたとしてもこの方は良い方のはずです。ところが、聞いた途端に嫌いになってしまいますね。では、それまで好きだった人はどこに行ってしまったのでしょう。そしてまた「ごめんね、言いすぎました。許してね」と言われたら、また好きになる。
このように、私が感じたものが、感じたままに、そこにいるように私たちは錯覚するのです。
仏教は、物の受け止め方を極めて大切にする教えです。
私にとって都合の良い人は良い人、私にとって都合の悪いは悪い人。その人が良い人か悪い人かを判断するのは私です。そして、意識の中では私は正しく判断する者、出来る者、となっています。
そのことを、お経の言葉でお話したいと思います。
最初に讃題を言いましたが、それは親鸞聖人の書かれたお手紙の中の一節です。
故法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしこと確に承り候ひし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるを御覧じては「往生必定すべし」とて笑ませたまひしを見まゐらせ候ひき、文沙汰してさがさしき人の参りたるをば「往生はいかがあらんずらん」と確かに承りき、今にいたるまで思ひあはせられ候ふなり。
難しいですね。これは、言葉遣いが難しいというのもありますが、仏教というのは本来常識に合わないようなことを言われているので、その意味でも分かりにくくなっています。
先ほどお勤めされたときに、「法名・釈○○、俗名・○○」と聞かれたと思います。「釈」とは、お釈迦様の教えを聞く、お釈迦様の一族になりました、ということです。いうなれば苗字のようなものです。お釈迦様一族。血のつながりではなく教えのつながりで。だから法名は本来、亡くなられた方だけに付けるのではなく、生きておられる方にもお付けします。
「おかみそり」。毎日、京都の本願寺ではおかみそりという仏事が行われているのですが、「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」といってカミソリをあてられます。「私は仏さまを拠りどころとしてこの人生を生きます。私は仏の教えを拠りどころとして物事の判断をしてゆこうと努めます。私は信者の一人として教えに泥を塗らないように責任感を持ってこの一生を生きてゆきます」というお約束の言葉が「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」です。
ここには「私を拠りどころにします」という言葉がありません。今まで自分を拠りどころにしていた生活と決別します、という意味でカミソリが当たるのです。お坊さんになる真似事としてしているのではありません。もちろん、「私はそういう生き方をしている者です」ということをハッキリさせるためにお坊さんは頭を剃るのですが。そして特別な袈裟を着ます。
袈裟には筋が入っています。それは、小さな使わなくなった生地をパッチワークして縫われているからです。だから一銭も使われません。本来袈裟はお金のかからないものです。きらびやかなイメージをもたれているかもしれませんが、袈裟は本来そういうものです。雑巾の大きいバージョンだと思われたら良いです。
この袈裟を着ることによって、「私は仏と、教えと、信者としての責任を持って生きてゆきます」ということを人々に、姿の上でアピールしているのです。それが、お坊さんの頭を剃った姿なのです。私たちは頭を剃る必要はありませんが、このことを心に思い定めるために、カミソリが当たるのです。
そして私を中心にした考え方、、、先ほど話しました判断力、それが自分中心であるということをしっかり理解するのです。自分中心とした判断力を止めなさい、といっているのではありません。止めたら大変なことです。理解している、ということです。それぞれがそれぞれの経験で、自分を中心に、自分の経験を基にして判断してゆくのは極めて誤りが多くあることを自覚するということです。そして、正しい物事の判断の拠りどころは仏さまとその教えである、と努力する人を仏教徒といいまして、お釈迦様の一族ですから「釈」という法名が付けられるのです。
俗名とは、単に生きていたときの名前というのではありません。戸籍上の名前ということです。生きているときの名前が俗名で、死んだ後の名前が法名、というのでではありません。死んだ後でも、個・○○さん、と言うじゃないですか。俗名は法律上の名前なのです。法名は生きても死んでも法名、俗名は生きても死んでも俗名です。
そしてもう一つ。「○月○日に往生されました」というご案内がありましたね。皆さん、往生という意味、分かっておられますか?関西ではよく使います。「立ち往生」とか「えらい往生したんや。かなわんかったで」と。大木こだま・ひびきという漫才芸人は「こんなん連れて漫才してます。往生しまっせ」と言って漫才していました。
今は死んだときや困ったときに「往生した」と使われますが、往生とは「生まれて往く」です。
そう受け止められますか?なんで?
亡くなられたんでしょ?なのになんで「生まれて往く」と言われるのですか?
亡くなられた方を「生まれて往く」と思えますか?
思えないのです。
生まれてきたら、おしまいは死ぬのです。だから「亡くなった」と聞いたら、「えええ!亡くなったんですか!?」とびっくりはしますが「あぁ、そうだったんですか。生まれてきたんですから、いずれはそうですよね」と受け入れますね。
もし「生まれさせていただきました」と訃報の連絡したらどうなりますか?「えええ!?生まれた?」とびっくりされます。
この「往生」という言葉は重要な意味を持っているのです。ただし、私たちの日常の意識では理解できない、納得できないことだと思います。
だから親鸞さまはこう言われるのです。「私は若い頃、先生である法然上人からこんなことを聞いたことがあります。浄土ということを『はぁ~そういう風に聞くべきなんだな』と理解しようとするなら、謎を解こうとするなら、愚者になりて往生するということを聞きました。それと、難しい言葉は何も理解できないけれども素直に念仏する人を見て法然さまは、『あの方達、間違いなく仏様のところへ生まれて往きますよ』とニコッと微笑んでいらっしゃいました。また逆に、色々なことを知っていて、勉強も出来て、難しいことを言う人がやってきたら、陰の方で『あれ、大丈夫かね』と心配そうに見てらっしゃいました。50年経った今もまた、昨日のことのように思い出されます。」先ほど読んだ文章はこういうことです。
「愚者になりなさい」というと、失礼なことを言ったように思われるかもしれませんが、法然上人が言われたことです。大事なことです。愚者とは、通知表の点が悪いことではありません。漢字を知らない、英語を知らないことではありません。
愚者の反対は賢者。
賢者と愚者の違いは、判断力が正しいか正しくないか、です。「愚者になりて」とは、自分の判断力が正しいと錯覚してはダメですよ、ということです。初めに、「皆さんの判断力は皆さんの経験によってご自分だけが考えている判断力ですよ」と言いました。私の判断力で何でも分かろうとする思いは、ある意味では傲慢というのです。思い上がりというのです。
なぜ仏さまに手を合わせるのですか。単純に考えて、私よりも仏さまの方が立派だからです。そうじゃないですか?「仏さまとは何か」という話は別の機会に譲るとして、少なくとも常識として、世間一般的な考え方としても、仏さまの法が私よりも思いがけなく尊く立派で素晴らしい方であるから、手を合わせるんでしょ?
私たちが「亡くなられた」ということを、仏さまは「生まれて往く」と仰いました。起こっていることは同じです。要するに、呼吸が止まって心臓活動が止まって、脳の活動が停止してしまった。それを私たちは「死んだ」、仏さまは「生まれて往く」と言っている。私たちは「生まれたら死ぬ」と思っています。
これは人間がつけた名前(言葉)なのです。人間の常識からすれば「生まれたら死ぬ」といったら驚きはするけど驚かない。しかし仏さまの常識からしたら「生まれた者は生まれて往く」のです。
何処へ?
浄土へです。仏となって。
そう言うと常識に合いませんから、大阪弁で言うと「生まれたらが生まれて往く?そんなアホなことがあってたまるかい?」というのがだいたいの受け止め方です。それは何故かというと、「生まれ者は死ぬ」というのが私の正しい判断ですから。だから私は賢い方になっているのです。
そして「生まれたら生まれて往く」という私の判断力に合わないことを言う仏さまは愚かな者。「誰や?そんなアホなこというてるのは?」
この判断のひっくり返り。仏さまに手を合わせている者が、仏さまに「馬鹿なことを」とは言えません。そうなると、私の考えていることが正しくないことであって、仏さまが言われることが実は正しいことである、と聞くことができるような心の転換を親鸞という人は私たちに語りかけているのです。
皆さんがお別れになったと称している方は、仏さまからは、生まれて往かれた方なのです。だからお寺では「往生なさった」と言うのです。
そして「生まれて往く」ということは新たな誕生。仕事があるんですよ。その覚悟で生きていきなはれ。『正信偈』には、まさに往生すべき方が往生されたらどうなるか、書かれてあります。
遊煩悩林現神通 入生死園示応化
これがお仕事です。林のように多くの人々が、それぞれに煩いを持ち、それぞれに悩みを抱えて生きています。その林のような悩みや煩いや痛みの中に遊び入る。これから皆さん、遊ぶんですよ。遊びの特権は子供。子供はおもちゃを沢山出して遊びます。ところが大人になると遊べなくなります。大人になると「片付けて欲しいものだけ出して遊びなさい」と訳分からんこと言いますね。それは遊びではありません。遊びはい~っぱい並んでいる中で遊べるのです。そして朝から晩まで遊んでも疲れません。子供は「疲れた」と言いません。「疲れた」と言ったらもう子供じゃないです。遊びは疲れません。効率をいわないから。これだけのことをしたらこれだけもらえるな、と考え出したら仕事になります。そして疲れるのです。
疲れを知らない子供のように、人々の悲しみや悩みや煩いや痛みの中に入って、煩いを取り除き、悩みを共にし、悲しみを共にし、その人々を本当の幸せに導いてゆくように、不思議な力を持って、その方々と共に生き、その人を支え、その人を守ってゆくように、あらゆる人の上に生きて往くことを往生と呼ぶのだそうです。
これが、私たちが「死んだ」と言っていることの実態です。「死んだ」なんて言うから先が無いのです。「死」という言葉はそういうことです。そこから先はもう無い、と。だから最近のお年寄りは遊ぶことばかり考えているのです。「今のうちに行っとかなきゃ」「今のうちにやっとかなきゃ」。先がないと思っているからです。大丈夫。これから先、いやと言うほど遊べますから。なぜならお金に換算しないから。言い換えれば礼を言われない。遊んで礼は言われないでしょ。
自分の意識であらゆる人々の幸せを実現できるように、命一杯、無限に生き続けて往くことを「仏さまとなって往生する」というのです。そうなったら、死ぬことはつまらんことではなくなってきます。悲しいことであり、辛いことではあります。別れが。しかし、死に別れることが単につまらんことでもなければ、単に悲しいことでもなくなります。やがて私を導き、あらゆる人々を支えてくださる。そういう方を仏さまというのです。皆さんはまだ違いますよ、自分の幸せしか考えていませんから。その、自分の幸せしか考えられないことが恥ずかしいこととなって、あらゆる人の幸せを実現してゆくことを自らの幸せとするような転換期。それが往生という言葉なのです。
今日お帰りになられ、お位牌をお仏壇にお納めになられるかと思いますが、改めて「往生なさいましたね」と仰ってください。「私だけでなしに、あらゆる人々の痛み、悲しみを支えるようなお方におなりになられましたね」と申し上げて差し上げてください。そうすると「おー、よう分かってくれたな」と声が心に返ってくるかもしれませんよ。
単に悲しみだけでなく、単に辛いだけではない。生きることと、死ぬ彼方にも光を与えてくれるような言葉が「往生」です。それは、私の考え方だけにこだわらず、仏さまの言葉に素直に耳を傾けて、仏さまの言葉を真実と受け入れると、そういう心の地平が初めて開かれるのですよ、と親鸞聖人は私たちに言い残していらっしゃるのです。
