★゜・。。・゜゜・。。・゜☆ 2010年10月27日 ☆゜・。。・゜゜・。。・゜★
【法話】報土と化土、真実と方便 @大恩寺 2010.10.24
八王子の大恩寺にて、田慈昭和上の日曜法座・祥月合同法要に参詣してきました。
田慈昭和上は行信教校講師でもあります。
都内とはいえ、八王子には自然が一杯。
秋の風情を楽しむことができます。
ほのかにウシ君のかほりを思わせる、田舎臭が漂うのどかなところに大恩寺はありました。
見難いかもしれませんが、門には(右から)「和顔愛語」とあります。
境内は隅々まで手入れ、掃除が行き届いており、
建物もキレイで清潔感にあふれていました。
浄土といっても真実と方便があります。
18願の人が往く報土と19願の人が往く化土で、
このご和讃では、報土を妙土、化土を七宝と親鸞聖人は仰っています。
真実は無限です。それに対して方便には数量が出てきます。
数にとらわれているのは方便。真実は数を超えています。
日本人の多くはこう思っているでしょう。
「悪いことをしたら死んだら地獄。良いことをしたら極楽」と。
しかしそんな単純なことではありません。真実の世界には、そういう条件はありません。
条件を離れ、弥陀の本願の疑いが晴れ、念仏申す人が極楽に往生できるのです。
極楽といってもあの世にあるのではありません。
極楽とは永遠の世界です。今の問題です。
そんな世界が有るのか無いのか、という考えは人間の相対的な考えです。
真実の世界は有るとか無いという世界を超越しています。
有るとか無いとか、善いとか悪いとか、二つを分けて考えるのが人間ですが、
仏様の知恵はそれらを超越しているのです。
有るのもホント、無いのもホント。また、有るのもウソ、無いのもウソです。
これが永遠の本当の世界です。
そういう本当の世界を聞かせていただいて、我が身が知らされるのです。
宗教とは現世利益とかそういうものではなく、人生そのものを問うものです。
私が生まれてきたとは、死ぬとはどういうことなのか?
子供は親を選ぶことはできません。
また、アフリカに生まれる人もいれば、イランに生まれる人もいます。日本人に生まれる人もいます。
私たちはこの国の○○の親の子に生まれてこようと思って生まれてきたのではありません。
気づいたら生まれています。
そう考えると、生まれてきたこと自体が不思議なことであります。
あなたはどこから生まれてきたのですか?
と言われたら、「お母ちゃんのお腹の中からや」と答えるかもしれませんが、
では、お母ちゃんのお腹の中にいる前はどこにいたのですか?
なぜこの家の、このお母ちゃんのお腹に生まれてきたのですか?
生まれてきたからには、生きて行かねばなりません。
その間、楽しいこともあれば辛いこともあるでしょう。
どちらが多いでしょうか?
喜怒哀楽の中に生きて、皆、死んで行くのです。
誰しも、死は悲しいことであり、不安であります。
答えの出ない不安です。
死んだらどうなるか、人間のの知恵では答えは出ません。
死を体験した人は、死んだからこの世にはもういません。
でも死を体験しない人はいません。
皆、死を体験するのに、死を体験した人はいないのです。
人間の矛盾です。
中国の孔子が弟子に「死ぬとはどういうことでしょうか」と聞かれた時こう答えています。
「われ未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」
生というものを知らないのに、どうして死を知ることができようか、と。
儒教では、過去世と未来世を説きません。
キリスト教では未来世は説きますが過去世は説きません。
仏教は過去・未来・現在の三世を説きます。
生を知るとは死を知ることであり、
死を知るとは生を知ることです。
仏様とは三世因果をさとった人であります。
お釈迦様は人間だから、仏教は人間の文化だと思われていますが、
説かれていることは仏の教えです。
世間を出た教え、出世間の教えです。
人間の知識や文化を超えた真理が説かれているのです。
そういう仏さまの教えを聞かせていただくことによって
生も死も知らせていただくのです。
弥陀の本願に疑いがなくなり、
本願力よって、死んで必ず浄土へ生まれさせていただくのです。
これは私の力ではありません。仏さまのお力です。
蓮如上人が「仏の方より往生は治定せしめたまう」と仰っている通りです。
そうやって、人生の答えが仏教によって示されるのです。
真実の世界は数量を、超えています。
『阿弥陀経』に「西方十万億土」とあるではないか、と思われるかもしれませんが、
それは、私たち人間にはそう説かないと分からないからです。
「西方」といっても、ずーっと西へ行ったら地球一周して元に戻ってしまいます。
そういう「西」ではなく、太陽や星が沈む方角ということで、
「西方」とは全てが落ち着くところ、ということです。
「十万億土」とは人間の世界を超えたところ、ということです。
方角とか日の良し悪しにとらわれるのは迷信です。
浄土真宗の人は13日の金曜日、仏滅でも結婚式を挙げます。
一切の迷信から開放させるのが真の宗教です。
親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」と仰っています。
さて、方便の世界ですが、
疑城、胎宮、懈慢、辺地と言われます。
「疑いの城」と書く通り、疑いの心がなくならず、自力心で念仏を称ています。
「胎宮」とは花が蕾の中にあるようなもので、閉じ込められた世界です。
懈慢とは自力心、自力心とは信罪福心のことです。
信罪福心とは、自分の罪に怯え、自分のやった功徳にうぬぼれる心です。
そのような心で「なんまんだぶつ」を称えても報土へは往けません。
言葉を覚えるのではなく、南無阿弥陀仏のこころを聞かせていただきましょう。
次回のご縁にまた続きをお話させていただきます。
田慈昭和上は行信教校講師でもあります。
都内とはいえ、八王子には自然が一杯。
秋の風情を楽しむことができます。
ほのかにウシ君のかほりを思わせる、田舎臭が漂うのどかなところに大恩寺はありました。
見難いかもしれませんが、門には(右から)「和顔愛語」とあります。
境内は隅々まで手入れ、掃除が行き届いており、
建物もキレイで清潔感にあふれていました。
= = = = = = = 以下、聞かせていただいたお話のメモです = = = = = = =
七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり
十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし(浄土和讃)
妙土広大超数限 本願荘厳よりおこる
清浄大摂受に 稽首帰命せしむべし(浄土和讃)
浄土といっても真実と方便があります。
18願の人が往く報土と19願の人が往く化土で、
このご和讃では、報土を妙土、化土を七宝と親鸞聖人は仰っています。
浄土
├ 報土 ─ 18願 ─ 妙土 ─ 真実
└ 化土 ─ 19願 ─ 七宝 ─ 方便
真実は無限です。それに対して方便には数量が出てきます。
数にとらわれているのは方便。真実は数を超えています。
日本人の多くはこう思っているでしょう。
「悪いことをしたら死んだら地獄。良いことをしたら極楽」と。
しかしそんな単純なことではありません。真実の世界には、そういう条件はありません。
条件を離れ、弥陀の本願の疑いが晴れ、念仏申す人が極楽に往生できるのです。
極楽といってもあの世にあるのではありません。
極楽とは永遠の世界です。今の問題です。
そんな世界が有るのか無いのか、という考えは人間の相対的な考えです。
真実の世界は有るとか無いという世界を超越しています。
有るとか無いとか、善いとか悪いとか、二つを分けて考えるのが人間ですが、
仏様の知恵はそれらを超越しているのです。
有るのもホント、無いのもホント。また、有るのもウソ、無いのもウソです。
これが永遠の本当の世界です。
そういう本当の世界を聞かせていただいて、我が身が知らされるのです。
宗教とは現世利益とかそういうものではなく、人生そのものを問うものです。
私が生まれてきたとは、死ぬとはどういうことなのか?
子供は親を選ぶことはできません。
また、アフリカに生まれる人もいれば、イランに生まれる人もいます。日本人に生まれる人もいます。
私たちはこの国の○○の親の子に生まれてこようと思って生まれてきたのではありません。
気づいたら生まれています。
そう考えると、生まれてきたこと自体が不思議なことであります。
あなたはどこから生まれてきたのですか?
と言われたら、「お母ちゃんのお腹の中からや」と答えるかもしれませんが、
では、お母ちゃんのお腹の中にいる前はどこにいたのですか?
なぜこの家の、このお母ちゃんのお腹に生まれてきたのですか?
生まれてきたからには、生きて行かねばなりません。
その間、楽しいこともあれば辛いこともあるでしょう。
どちらが多いでしょうか?
喜怒哀楽の中に生きて、皆、死んで行くのです。
誰しも、死は悲しいことであり、不安であります。
答えの出ない不安です。
死んだらどうなるか、人間のの知恵では答えは出ません。
死を体験した人は、死んだからこの世にはもういません。
でも死を体験しない人はいません。
皆、死を体験するのに、死を体験した人はいないのです。
人間の矛盾です。
中国の孔子が弟子に「死ぬとはどういうことでしょうか」と聞かれた時こう答えています。
「われ未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」
生というものを知らないのに、どうして死を知ることができようか、と。
儒教では、過去世と未来世を説きません。
キリスト教では未来世は説きますが過去世は説きません。
仏教は過去・未来・現在の三世を説きます。
生を知るとは死を知ることであり、
死を知るとは生を知ることです。
仏様とは三世因果をさとった人であります。
お釈迦様は人間だから、仏教は人間の文化だと思われていますが、
説かれていることは仏の教えです。
世間を出た教え、出世間の教えです。
人間の知識や文化を超えた真理が説かれているのです。
そういう仏さまの教えを聞かせていただくことによって
生も死も知らせていただくのです。
弥陀の本願に疑いがなくなり、
本願力よって、死んで必ず浄土へ生まれさせていただくのです。
これは私の力ではありません。仏さまのお力です。
蓮如上人が「仏の方より往生は治定せしめたまう」と仰っている通りです。
そうやって、人生の答えが仏教によって示されるのです。
真実の世界は数量を、超えています。
『阿弥陀経』に「西方十万億土」とあるではないか、と思われるかもしれませんが、
それは、私たち人間にはそう説かないと分からないからです。
「西方」といっても、ずーっと西へ行ったら地球一周して元に戻ってしまいます。
そういう「西」ではなく、太陽や星が沈む方角ということで、
「西方」とは全てが落ち着くところ、ということです。
「十万億土」とは人間の世界を超えたところ、ということです。
方角とか日の良し悪しにとらわれるのは迷信です。
浄土真宗の人は13日の金曜日、仏滅でも結婚式を挙げます。
一切の迷信から開放させるのが真の宗教です。
親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」と仰っています。
さて、方便の世界ですが、
疑城、胎宮、懈慢、辺地と言われます。
「疑いの城」と書く通り、疑いの心がなくならず、自力心で念仏を称ています。
「胎宮」とは花が蕾の中にあるようなもので、閉じ込められた世界です。
懈慢とは自力心、自力心とは信罪福心のことです。
信罪福心とは、自分の罪に怯え、自分のやった功徳にうぬぼれる心です。
そのような心で「なんまんだぶつ」を称えても報土へは往けません。
言葉を覚えるのではなく、南無阿弥陀仏のこころを聞かせていただきましょう。
次回のご縁にまた続きをお話させていただきます。








