中西智海 / 親鸞教学入門(7)

(6)の続きです。

ねがいと人格

(前略)
 さて、「生きる」ことにかかわる問題を大きく分けると二つの方向が考えられます。一つは生存・生活にかかわるも、いま一つは人間の実存にかかわるものであります。そして人間は普通、生存・生活の問題に埋没し、あけくれてしまいがちなのであります。しかし、人間が単に本能的に生きるとか、適応行動のみで満足するという生きものではなく、ほんとうに生きる、創造行動によって人生をきりひらいて生きることに意味を発見する生きものであってみれば、実存の問題こそ深くほりさげなければならない重要な課題であるといわねばなりません。生存・生活の問題はたしかに表面的で激しく大きいものでありましょう。しかし、そうだからといってそれがそのまま人間のほんとうの問題、根本の課題、究極のことがらであるということにはならないはずであります。まゆげのこげるような激しい問題の根っこに微かではあるが深く底しれない問題、すなわち生と死の問題があることをしらなければなりません。枝や葉はすぐわかりますが根は見えません。しかし、見えるから重大で、見えないからとるにたらないというものではありません。まして見えないから無いのではなく、見えない根こそ、もっともよく知らねばならないところであります。それこそ、「いのちあってのものだね」といわれるようにいのちがあってからの問題、「生」が前提になっている問題――政治・経済・芸術など――の根底に「生と死を貫通」する次元の問題、いのちあってからの問題ではなく、いのちそのものの問題、人生における問題ではなく、人生そのものの問題、外なる問題ではなく、内なる問題こそ、人間の究極の問題であることにめざめなければなりません。この「生・死」の問題、人間それ自体の「しくみ」をごまかさずにみすかすことをぬきにしたユートピアやヒューマニズムは結局、人間楽観主義や単純な人間肯定主義から出るうぬぼれに連なるものといわねばなりません。

本願の原意

(前略)
 実はこの人間の正体をつくつめ、本音をいいあて、人間そのものの問題をあからさまにし、人間のめざめを呼び起こすものこそ「如来の本願」と説かれることがらなのであります。
 「本願」の原語 purva-pranidhana は「前に置く」「約束」「必然性」の意味があるといわれています。
 すなわち、仏教で「本願」はもともと我執(自己中心性)が破斥せられていく限りない実践形態をいうのであります。つまり、衆生(sattva 生きとし生けるもの)は我執(自己中心性)が破斥せられねばならないように前から縁起の理の必然性の上におかれていることを意味し、そのような約束のうちにあることをいいあてられているということになるのであります。このようなあり方を自身の上に発見するとき、縁起の法の光の前におかれた私はいかに我執(自己中心性)から脱却できないものかが明らかになり、そのものにこそ、かけられなければならなかった如来の本願、誓願の強さに深くうなずくという構造を示すのであります。如来の本願の強烈さを「もののにぐるをおわえとるなり」とうけとめられた親鸞聖人こそ、この仏教の原理性とその実存的把握のピークをいいあてておられるといえましょう。

(中略)

親鸞聖人と本願

 経典によれば、如来の本願は十劫という遠い遠い過去において、すでに成就されていると説かれています。すなわち、如来の本願は想像を絶する遠い過去に出来上がっているのであると説かれているのであります。そのようなところから、本願のいわれは、物語であるといううけとめ方があったようであります。しかし、それは「昔々あるところに……」という昔話、またはお伽噺ではないのです。もし、単なる昔の物語やお伽噺であるならば、現にここに体温をもつ私とは「関係ない」ことになってしまい、ためいきをついて生きている現実の私とのかかわりは断たれて一つの子守歌となってしまいましょう。
 さて、親鸞聖人は「本願」をどのようにうけとめられたのでありましょうか。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(『歎異抄』)
 ここでは、「親鸞一人」に脈々とはたらく本願にうなずき、「それほどの業をもちける身」に「たすけんとおぼしめしたちける本願」をひしとうけとめられていることを告げられています。このことばは体温のぬくもりさえ感じさせます。およそ、「昔々あるところに……」などという発想を吹き飛ばして弥陀の眼前に現在した人のみがいえるおどろきが感じられます。それはなぜでしょうか。
 十劫の昔ととかれる如来の本願は単なる時間的過去ではなく、時間を超えているというべきでありましょう。そういう意味では、「どのような過去よりも過去である」ということになりましょう。であればこそ、弥陀の本願は歴史的時間の中にある親鸞聖人を弥陀の眼前に現在せしめ「親鸞一人がためなりけり」という「一人」のための本願成就として成り立つのであります。親鸞聖人には、自らが弥陀の本願という歴史的時間を超えた真実の前に現在することによってほんとうの意味で親鸞一人が誕生することができたというよろこびがありました。すなわち親鸞聖人の信心決定の時と本願成就の時は限りなく距っていながらそれでいて本願成就の「時」と信心決定の「今」とは同時であるというきわめて宗教的実存としてのできごとがはっきりしているといわねばなりません。虚妄の歴史と時の中にくちてゆかねばならない身において、滅びの時ではなくほんとうのめざめの時を成り立たしめたものこそ弥陀の本願でありまして、弥陀の本願とのめぐりあいこそ、ほんとうの親鸞を成り立たしめたできごとであったというのが親鸞聖人の本願のうけとめ方であります。もとより歴史を超えるといわれる本願とのめぐりあいは、歴史の中にたしかに伝えられた真実とのかかわりを無視して成り立つものではありません。それでこそ「遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」と慶ばれたのであります。
(『本願と私』より66~72頁)




つづく



(法話)生きることと、死ぬ彼方にも光を与えてくれるような言葉が「往生」です。 @八王子 大恩寺 2011.07.10

7/10、八王子の大恩寺へ聴聞に行ってきました。ご講師は天岸浄圓先生です。

以下、その時の内容。

大恩寺


 故法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしこと確に承り候ひし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるを御覧じては「往生必定すべし」とて笑ませたまひしを見まゐらせ候ひき、文沙汰してさがさしき人の参りたるをば「往生はいかがあらんずらん」と確かに承りき、今にいたるまで思ひあはせられ候ふなり。
初盆を迎え、亡くなられた方を偲ぶご縁に恵まれましてお話させていただきます。

「ご縁」というのは英語に翻訳しにくい言葉だそうです。「原因」という言葉は説明できても、「ご縁」は訳せないと聞きます。皆さんも「ご縁」を現代語訳できますか?「この度は不思議なご縁で」と言いますでしょ?「ご縁」という言葉は色々なところで使われますが、「一言二言では説明できないけど、色々なこと、条件が重なり合い、今の状態に至りました」ということでしょう。何か一つだけを原因として確定するのではなく、今日の日があるのは言葉で尽くすことの出来ない色々なつながりがあった、説明しきれませんがそのお陰でこういう出会いが出来た、という幅の広い、心が豊かでないと感じ取れない言葉です。

仏教というのは面白い宗教で、人間の持っている受け止め方のカラクリをハッキリさせるということがあります。話をしているのは私一人、しかも一つの話しか出来ません。しかし、これをお聞きくださる皆さんは、70人いたら70通りに聞かれるのです。皆同じ事を聞いているのですが、意識を通して聞いているのですから、「長いな~」と感じられる方もおられれば感じられない方もおられます。しかし、自分の感じ方しか分かりませんから、他人も「長いな~」と感じているのだろうな~と感じているのです。10人おれば10通りの聞き方をし、そして自分の聞き方が正しいと錯覚に陥るということを私たちはやっているのです。私の聞いている話と隣の人が聞いている話は同じ話なのですが、感想なると全く違うようになるのです。時として、私の言ったことのないことまで「確かにそう聞いた」と言われる方もあります(笑)。

今お話のことを言いましたが、見ているものも書いているものも、味わっているものも、さわっているものも、受け止めているもの全体が、そういうかたちの中で私たちはで見たり聞いたり、香りを嗅ぎ、味わい、接し、意識をして生活しているのです。

だから、いっぺんに物事が変わることがあります。例えば「この人は好きだ」という人がいるとします。なぜかというとこの人は私に優しいから。私にとって良い人だから。ところが、何かの機会でその人が私の胸にグサッとくることを言って私が聞いてしまった。その方が本当に良い方であるとすれば、私がその言葉を聞いたとしてもこの方は良い方のはずです。ところが、聞いた途端に嫌いになってしまいますね。では、それまで好きだった人はどこに行ってしまったのでしょう。そしてまた「ごめんね、言いすぎました。許してね」と言われたら、また好きになる。

このように、私が感じたものが、感じたままに、そこにいるように私たちは錯覚するのです。

仏教は、物の受け止め方を極めて大切にする教えです。

私にとって都合の良い人は良い人、私にとって都合の悪いは悪い人。その人が良い人か悪い人かを判断するのは私です。そして、意識の中では私は正しく判断する者、出来る者、となっています。

そのことを、お経の言葉でお話したいと思います。

最初に讃題を言いましたが、それは親鸞聖人の書かれたお手紙の中の一節です。
 故法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしこと確に承り候ひし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるを御覧じては「往生必定すべし」とて笑ませたまひしを見まゐらせ候ひき、文沙汰してさがさしき人の参りたるをば「往生はいかがあらんずらん」と確かに承りき、今にいたるまで思ひあはせられ候ふなり。
難しいですね。これは、言葉遣いが難しいというのもありますが、仏教というのは本来常識に合わないようなことを言われているので、その意味でも分かりにくくなっています。

先ほどお勤めされたときに、「法名・釈○○、俗名・○○」と聞かれたと思います。「釈」とは、お釈迦様の教えを聞く、お釈迦様の一族になりました、ということです。いうなれば苗字のようなものです。お釈迦様一族。血のつながりではなく教えのつながりで。だから法名は本来、亡くなられた方だけに付けるのではなく、生きておられる方にもお付けします。
「おかみそり」。毎日、京都の本願寺ではおかみそりという仏事が行われているのですが、「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」といってカミソリをあてられます。「私は仏さまを拠りどころとしてこの人生を生きます。私は仏の教えを拠りどころとして物事の判断をしてゆこうと努めます。私は信者の一人として教えに泥を塗らないように責任感を持ってこの一生を生きてゆきます」というお約束の言葉が「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」です。
ここには「私を拠りどころにします」という言葉がありません。今まで自分を拠りどころにしていた生活と決別します、という意味でカミソリが当たるのです。お坊さんになる真似事としてしているのではありません。もちろん、「私はそういう生き方をしている者です」ということをハッキリさせるためにお坊さんは頭を剃るのですが。そして特別な袈裟を着ます。
袈裟には筋が入っています。それは、小さな使わなくなった生地をパッチワークして縫われているからです。だから一銭も使われません。本来袈裟はお金のかからないものです。きらびやかなイメージをもたれているかもしれませんが、袈裟は本来そういうものです。雑巾の大きいバージョンだと思われたら良いです。
この袈裟を着ることによって、「私は仏と、教えと、信者としての責任を持って生きてゆきます」ということを人々に、姿の上でアピールしているのです。それが、お坊さんの頭を剃った姿なのです。私たちは頭を剃る必要はありませんが、このことを心に思い定めるために、カミソリが当たるのです。

そして私を中心にした考え方、、、先ほど話しました判断力、それが自分中心であるということをしっかり理解するのです。自分中心とした判断力を止めなさい、といっているのではありません。止めたら大変なことです。理解している、ということです。それぞれがそれぞれの経験で、自分を中心に、自分の経験を基にして判断してゆくのは極めて誤りが多くあることを自覚するということです。そして、正しい物事の判断の拠りどころは仏さまとその教えである、と努力する人を仏教徒といいまして、お釈迦様の一族ですから「釈」という法名が付けられるのです。

俗名とは、単に生きていたときの名前というのではありません。戸籍上の名前ということです。生きているときの名前が俗名で、死んだ後の名前が法名、というのでではありません。死んだ後でも、個・○○さん、と言うじゃないですか。俗名は法律上の名前なのです。法名は生きても死んでも法名、俗名は生きても死んでも俗名です。




そしてもう一つ。「○月○日に往生されました」というご案内がありましたね。皆さん、往生という意味、分かっておられますか?関西ではよく使います。「立ち往生」とか「えらい往生したんや。かなわんかったで」と。大木こだま・ひびきという漫才芸人は「こんなん連れて漫才してます。往生しまっせ」と言って漫才していました。

今は死んだときや困ったときに「往生した」と使われますが、往生とは「生まれて往く」です。

そう受け止められますか?なんで?
亡くなられたんでしょ?なのになんで「生まれて往く」と言われるのですか?
亡くなられた方を「生まれて往く」と思えますか?


思えないのです。
生まれてきたら、おしまいは死ぬのです。だから「亡くなった」と聞いたら、「えええ!亡くなったんですか!?」とびっくりはしますが「あぁ、そうだったんですか。生まれてきたんですから、いずれはそうですよね」と受け入れますね。
もし「生まれさせていただきました」と訃報の連絡したらどうなりますか?「えええ!?生まれた?」とびっくりされます。

この「往生」という言葉は重要な意味を持っているのです。ただし、私たちの日常の意識では理解できない、納得できないことだと思います。

だから親鸞さまはこう言われるのです。「私は若い頃、先生である法然上人からこんなことを聞いたことがあります。浄土ということを『はぁ~そういう風に聞くべきなんだな』と理解しようとするなら、謎を解こうとするなら、愚者になりて往生するということを聞きました。それと、難しい言葉は何も理解できないけれども素直に念仏する人を見て法然さまは、『あの方達、間違いなく仏様のところへ生まれて往きますよ』とニコッと微笑んでいらっしゃいました。また逆に、色々なことを知っていて、勉強も出来て、難しいことを言う人がやってきたら、陰の方で『あれ、大丈夫かね』と心配そうに見てらっしゃいました。50年経った今もまた、昨日のことのように思い出されます。」先ほど読んだ文章はこういうことです。

「愚者になりなさい」というと、失礼なことを言ったように思われるかもしれませんが、法然上人が言われたことです。大事なことです。愚者とは、通知表の点が悪いことではありません。漢字を知らない、英語を知らないことではありません。

愚者の反対は賢者。

賢者と愚者の違いは、判断力が正しいか正しくないか、です。「愚者になりて」とは、自分の判断力が正しいと錯覚してはダメですよ、ということです。初めに、「皆さんの判断力は皆さんの経験によってご自分だけが考えている判断力ですよ」と言いました。私の判断力で何でも分かろうとする思いは、ある意味では傲慢というのです。思い上がりというのです。

なぜ仏さまに手を合わせるのですか。単純に考えて、私よりも仏さまの方が立派だからです。そうじゃないですか?「仏さまとは何か」という話は別の機会に譲るとして、少なくとも常識として、世間一般的な考え方としても、仏さまの法が私よりも思いがけなく尊く立派で素晴らしい方であるから、手を合わせるんでしょ?

私たちが「亡くなられた」ということを、仏さまは「生まれて往く」と仰いました。起こっていることは同じです。要するに、呼吸が止まって心臓活動が止まって、脳の活動が停止してしまった。それを私たちは「死んだ」、仏さまは「生まれて往く」と言っている。私たちは「生まれたら死ぬ」と思っています。
これは人間がつけた名前(言葉)なのです。人間の常識からすれば「生まれたら死ぬ」といったら驚きはするけど驚かない。しかし仏さまの常識からしたら「生まれた者は生まれて往く」のです。

何処へ?
浄土へです。仏となって。

そう言うと常識に合いませんから、大阪弁で言うと「生まれたらが生まれて往く?そんなアホなことがあってたまるかい?」というのがだいたいの受け止め方です。それは何故かというと、「生まれ者は死ぬ」というのが私の正しい判断ですから。だから私は賢い方になっているのです。

そして「生まれたら生まれて往く」という私の判断力に合わないことを言う仏さまは愚かな者。「誰や?そんなアホなこというてるのは?」

この判断のひっくり返り。仏さまに手を合わせている者が、仏さまに「馬鹿なことを」とは言えません。そうなると、私の考えていることが正しくないことであって、仏さまが言われることが実は正しいことである、と聞くことができるような心の転換を親鸞という人は私たちに語りかけているのです。

皆さんがお別れになったと称している方は、仏さまからは、生まれて往かれた方なのです。だからお寺では「往生なさった」と言うのです。

そして「生まれて往く」ということは新たな誕生。仕事があるんですよ。その覚悟で生きていきなはれ。『正信偈』には、まさに往生すべき方が往生されたらどうなるか、書かれてあります。
遊煩悩林現神通 入生死園示応化
これがお仕事です。林のように多くの人々が、それぞれに煩いを持ち、それぞれに悩みを抱えて生きています。その林のような悩みや煩いや痛みの中に遊び入る。これから皆さん、遊ぶんですよ。遊びの特権は子供。子供はおもちゃを沢山出して遊びます。ところが大人になると遊べなくなります。大人になると「片付けて欲しいものだけ出して遊びなさい」と訳分からんこと言いますね。それは遊びではありません。遊びはい~っぱい並んでいる中で遊べるのです。そして朝から晩まで遊んでも疲れません。子供は「疲れた」と言いません。「疲れた」と言ったらもう子供じゃないです。遊びは疲れません。効率をいわないから。これだけのことをしたらこれだけもらえるな、と考え出したら仕事になります。そして疲れるのです。
疲れを知らない子供のように、人々の悲しみや悩みや煩いや痛みの中に入って、煩いを取り除き、悩みを共にし、悲しみを共にし、その人々を本当の幸せに導いてゆくように、不思議な力を持って、その方々と共に生き、その人を支え、その人を守ってゆくように、あらゆる人の上に生きて往くことを往生と呼ぶのだそうです。

これが、私たちが「死んだ」と言っていることの実態です。「死んだ」なんて言うから先が無いのです。「死」という言葉はそういうことです。そこから先はもう無い、と。だから最近のお年寄りは遊ぶことばかり考えているのです。「今のうちに行っとかなきゃ」「今のうちにやっとかなきゃ」。先がないと思っているからです。大丈夫。これから先、いやと言うほど遊べますから。なぜならお金に換算しないから。言い換えれば礼を言われない。遊んで礼は言われないでしょ。

自分の意識であらゆる人々の幸せを実現できるように、命一杯、無限に生き続けて往くことを「仏さまとなって往生する」というのです。そうなったら、死ぬことはつまらんことではなくなってきます。悲しいことであり、辛いことではあります。別れが。しかし、死に別れることが単につまらんことでもなければ、単に悲しいことでもなくなります。やがて私を導き、あらゆる人々を支えてくださる。そういう方を仏さまというのです。皆さんはまだ違いますよ、自分の幸せしか考えていませんから。その、自分の幸せしか考えられないことが恥ずかしいこととなって、あらゆる人の幸せを実現してゆくことを自らの幸せとするような転換期。それが往生という言葉なのです。

今日お帰りになられ、お位牌をお仏壇にお納めになられるかと思いますが、改めて「往生なさいましたね」と仰ってください。「私だけでなしに、あらゆる人々の痛み、悲しみを支えるようなお方におなりになられましたね」と申し上げて差し上げてください。そうすると「おー、よう分かってくれたな」と声が心に返ってくるかもしれませんよ。

単に悲しみだけでなく、単に辛いだけではない。生きることと、死ぬ彼方にも光を与えてくれるような言葉が「往生」です。それは、私の考え方だけにこだわらず、仏さまの言葉に素直に耳を傾けて、仏さまの言葉を真実と受け入れると、そういう心の地平が初めて開かれるのですよ、と親鸞聖人は私たちに言い残していらっしゃるのです。





(法話)私たちは仏さまの外に出れるものではないのです。@柏市 西方寺 2011.07.03

7/3、千葉県柏市の西方寺へ聴聞に行ってきました。
以下、松月博宣師から聞かせていただいた内容です。

2011.07.03 西方寺 2011.07.03 西方寺


他力本願とは、「他人のふんどしで相撲をとる」というように、人の力を借りるという風に思われていますが、そうではありません。他人のふんどしで相撲を取るなんて、汚いですよ(笑)

梯實圓という方は、他力のことを「利他力」だと仰ります。「利他」の反対語としては、「自利」という言葉があります。仏教でいう最高のご利益はさとりのことですが、自分がさとりを開くことが「自利」。その反対は人さまをさとらせる働きです。阿弥陀さまが人さまを悟らしめる働き、それが「利他」です。だから親鸞聖人は
他力とは如来の本願力これなり
と仰いました。

他力は今、皆さんに働いておられます。実感していますでしょうか? 皆さん、好きで進んでお寺にくる人でしたか? 進んでお念仏を申す人ですか? どう見ても違いますなぁ(笑)それが、皆さんこうして集っておられる。これは如来さまの力が働いている証拠です。

他力とは、探さなくても良いんです。こうして参らせて下さった働きが他力なんです。

話を聞いて、何かをつかんで仏にになろうとしているとしたら大間違いです。それは親に抱かれて親探ししているようなものです。すでに、お救いの手の中にいるんです。ああ、そうだったんですね、と気づかせて頂くのです。だから「目覚め」と言うのです。

だから、ここにいることを喜びましょうよ。

(休憩)

凡夫を仏にするという阿弥陀さまは、どんな仏さまか。

5月、新聞にこういう投書がありました。「頑張ろう」「頑張って」より、「大丈夫」「心配ない」と言ってほしい、と。震災にあわれた方は、十分頑張っているのです。

『般舟讃』中に、こういうお言葉が、出ています。
仏身円満無背相 十方来人皆対面
阿弥陀さまのお姿には背中の姿がない。だから十方より来る人皆、面に向かっている、ということです。紙をくる~と(筒状に)すると、どこから見ても表、そんな状態です。

2011.07.03 西方寺


この言葉を聞いたとき、祖母が語ってくれたことを思い出しました。祖母はお念仏を大事にする人でした。寺の聴聞から帰ってきて、私を仏壇の前に座らせ、阿弥陀さまの姿を指差し、「阿弥陀さま、後ろになにか担いでいるやろ? あの光背、何のために担いでいるか分かる? あれは、あなたに背中を見せないという仏様の心なんだよ。だから、どんなことがあってもあなたを見捨てないんだよ。お礼を言おうね。なんまんだぶ、なんまんだぶ」。仏像の専門家は、そういうことは言わないでしょうが、私にはそのばあちゃんの話が有難いです。

ばあちゃんとは、そういうことを教えるためにいるんです。「女性」とは、辞書をひくと「子供を産む機能のある性」、そして生物学的には「子供を産む機能を失ったら速やかに亡くなる」とあります。ところが、子供を産む機能を失っても生きているのはゴンドウクジラと人間だけです。そこで生物学者が、なぜ人間とゴンドウクジラだけは生き延びているのか、調べてみたそうです。すると、ゴンドウクジラは生んだ子の生んだ子供の面倒をみるそうです。つまり、ばあちゃんは、孫育てをするために生きている。それが「ばあちゃん仮説」です(笑)

皆さん、仏さまのことをお孫さんに伝えてあげてください。

仏さまは、全ての、生きとし生けるものに向き合って下さいます。背中を見せません。背中を向けるとは相手を見捨てるということです。

人は、誰からも見捨てられたときに、生きる力を失います。その中、ただ一人でもあなたを見捨てませんよ、という人があれば生きて行けます。

良いときは集ってくれるけど、都合が悪くなると離れてしまうのが人の世の常です。私がどの様な有様、人格で生きようとも、あなたを見捨てないぞ、という人を私たちは求めているはずです。

それが阿弥陀さまです。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀と名付けたてまつる
これを親鸞聖人は「ひとたびとりて永く捨てぬなり 逃ぐる者を追わへとるなり」と読まれました。
「ひとたびとりて永く捨てぬなり」「阿弥陀」とは、「ア・ミター」というのが源語です。英語では、an(無理)meter(量)です(無量)。我々は時間の制約の中で生きています。それを寿命と言います。その、寿命に限界のあるものを包み込むのが寿命無量、現代の言葉でいうと永遠の仏ということです。
「逃ぐる者をおわえとるなり」。逃げて行く者までも追っかけて捨てない。これは空間の広がりを表します。「アミター・バー」これを「無量光」と訳しました。永遠に対し、無限を表します。
阿弥陀さまとは、永遠で無限の仏さまです。

孫悟空がお釈迦さまの手の中にいる話を思い出して下さい。私たちは仏さまの外に出れるものではないのです。

その仏さまが「南無」して下さるのです。「まかせなさい」ではなく「まかせます」です。「南無阿弥陀仏」とは、そのまま救う、という仏さまのお力が働いているのです。
これが親鸞聖人の味わいです。


最後に私の味わいを述べさせていただきます。
昼、うなぎを食べました。うなぎを摂取したんです。そうしたら、
うなぎを摂取することにより、うなぎが私になるのです。牛を食べたら牛が私になるんです。鶏を食べたら鶏が私になります。豚を食べたら、、、それは食べ過ぎですが(笑)、うなぎを食べたらうなぎか私になるのです。

他人事というのが一切なくなる世界です。阿弥陀さまが私を他人事と思われない世界に包まれた世界が摂取不取です。

お東の曽我量深という方はこう言われました。
如来は我なり。されど、我は如来に非ず。如来、我となりて我を救い給う
如来が私を食って下さって、私を仏にして下さる。それが摂取不取ということです。

本当に寄り添うことのできるのが阿弥陀さまです。
被災地で、次のスタート地に立てないで涙を流している人、また、そういう人を忘れてしまう私にも、寄り添うてくださるのが阿弥陀さまです。

人間には限界がありますが、それを知りつつ、如来さまに共々寄り添うて下さる私たちと、できる限りのことをさせていただくのが復興支援になるのだと思います。

それを忘れると上から目線となってしまうのです。






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