梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (13)[「「謗法」について]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (12)[「五逆罪」について]の続きです。

十七、「謗法」について

次に「正法を誹謗する」というのは、どういうことですか。

仏陀が説かれた正しい教法を謗ることです。仏陀とは、生と死を超えて、生と死を一望のもとに見通すような智慧を獲得して、生きることもありがたく尊いことであり、死ぬこともまたありがたく尊いことであると言い切れる精神の領域を開いているお方です。
 そのように生と死を超えて、生と死を全体的に見通した上で、このように生きるのが正しい生き方ですよ、このように死を受け容れていくのが正しい死の受け容れ方ですよと、生と死に処する正しい存りかたを私たちに教えてくださっているのが仏陀の教法(仏法・仏教)なのです。それを「正法」ともいうのです。人びとは、その教えに従って、正の意味と死の意味とを確認するとき、初めて心豊かに生き、心豊かに死を迎えることができる正しい法則だからです。そのような正法を認めず、謗ることを、正法を誹謗するというのです。



それは、具体的にいうと、どのようなことなんですか。

曇鸞大師は、
もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解(さと)り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づく。
(『註釈版聖典』298頁)
と言われています。正法を謗るということは、自ら邪見を起こして、あるいは邪見な人から、真実をさとった仏陀なんか存在しないし、したがって仏陀の教えといわれるものもでたらめなものであると教えられて、そのように思い込み、また人にも宣伝することです。
 したがって、仏陀の教えに順って実践している菩薩(心理にかなった目覚めた生き方をしている修行者)もいなければ、菩薩の生き方である布施(人びとに物質的・精神的な援助を行って、まことの安らぎを与えること)・持戒(仏陀の戒めを守って生活を浄化すること)・忍辱(非難や苦難に耐えて真実の道を歩むこと)・精進(正しい努力を続けること)・禅定(精神を統一し、集中すること)・智慧(言葉に対応する実体はないと悟って、とらわれを離れること)といった六つの修行徳目(六波羅蜜)も、虚構にすぎないといって、自分だけではなく人びとの心の拠り所を破壊し、惑わせるものをいいます。



五逆罪と正法を誹謗することとは、どんな関係がありますか。

正法を誹謗することから、五逆罪が生まれてくるのです。正しい教えに背き、心の拠り所を失った人は、自分の生きる意味も方向もわからなくなり、なすべきことと、なしてはならないことのけじめもつかなくなってしまいます。そうなれば、ただ自分に都合がいいか悪いかだけで、物事の是非、善悪を判断し、勝手気ままな行動をするようになりますから、お互いの利害は衝突し、憎しみの炎を燃やし、激しい争いの世界が出現し、自他ともに苦しんでいかねばならなくなります。



五逆罪の根元には、謗法があるというのですか。

そうです。五逆罪は、殺人や殺傷罪ですから、極重の罪のようですが、実はその根底には、正法を認めず、正しい道理を見失った「謗法」があったのです。正しい道理の感覚を失った人は、ブレーキも利かず、ハンドルも壊れた自動車に乗って、猛烈なスピードで暴走しているようなものです。自分だけではなく、人まで破滅させてしまいます。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (12)[「五逆罪」について]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (11)[「乃至十念」の称名]の続きです。

十六、「五逆罪」について

第十八願の最後に、「ただ五逆と正法を誹謗せんとをば除く(唯除五逆、誹謗正法)」と誓われていますが、それはどういう意味ですか。

五逆罪を犯し、仏のみ教えを誹り、人びとの心の拠り所を失わせるような行為をしている者は、救いから除外するという意味です。



五逆罪とは、どういう罪のことですか。

五種類の反逆罪ということで、「父を殺す」「母を殺す」「阿羅漢を殺す」「仏身より血を出だす」「和合僧を破る」という五種の犯罪をいいます。これを逆罪というのは、反逆罪だからです。すなわち自分を愛し、幸せを願ってくれた人の愛情を善意を裏切り、恩を仇で返す行いであるからです。



五逆罪について詳しく説明してください。

まず父親や母親は、私を生み、深い愛情をこめて育ててくれた、この世で一番深い恩を受けている方です。その父や母を、自分にとって都合が悪いからというので殺してしまうのですから、この世の中では一番重い罪であるというのです。『観無量寿経』や『涅槃業』に、マガダ国の皇太子であった阿闍世が、提婆達多に唆されて父の頻婆娑羅王を殺害して王位を奪い、それを止めようとした母の韋提希夫人までも殺そうとした事件が説かれています。「阿羅漢を殺す」という阿羅漢(最高の聖者)とは、愛欲や憎悪といった醜い煩悩をすべて断ち切って、仏弟子としては最高の境地まで達し、人びとを導いていかれる聖者のことです。
 釈尊の弟子の中でも、舎利弗尊者と並んで神通力第一と崇められていた目連尊者は、晩年、王舎城内を托鉢されていたとき、仏教に反感をもつ異教徒のために殴り殺されています。暴漢は町の人の通告で官憲に逮捕されましたが、目連尊者は瀕死の重傷を受けながらも官憲に対して、「その人を決して死刑にしないでください、よく話せば必ず心を改めて正道に目覚めてくれるはずだから」と、言い残してなくなります。尊者のその言葉を聞いて、やがて暴漢も心を改めて仏教に帰依し、罪の償いをしながら多くの人びとを導いていったといわれています。目連尊者のような尊い阿羅漢を、自分の主義主張に合わないというだけで殺してしまうような人もいたのです。
 「仏身より血を出だす」というのは、提婆達多の故事によっています。釈尊の従弟であり仏弟子にまでなった提婆達多ですが、釈尊が多くの人に尊敬されているのを妬んで、殺そうとして、崖の下を歩いておられる釈尊をめがけて大きな岩を落としたことがありました。幸い岩は途中で岩と岩の間に挟まれて落下しなかったので、釈尊は助かりましたが、落ちてきた岩の破片で足に傷を受けられたといわれます。
 「和合僧を破る」という和合僧とは、僧伽(サンガ)の訳語です。仏陀の誡めを守って生きる修行者たちの「和やかな集い」という意味で、自我を主張して争うということがない集団ですから和合衆とも訳しています。それは釈尊の教えを正しく伝えていくと同時に、仏弟子を育て導き、迷える人びとの心の依り所となる「仏教集団」のことです。提婆達多は、その和やかな集いを攪乱し、さまざまな策略をめぐらして、集団を分裂させたといわれています。もっとも提婆達多に従って分派行動をとった人たちも、最終的には舎利弗の説得によってほとんどが帰参して、たくらみは失敗したといわれています。
 この五逆罪の中、父を殺し、母を殺すことを、恩田に背くといい、あとの三種を福田に背くと呼んでいます。よく耕された田畑は、素晴らしい収穫を与えてくれるように、父や母は自分を生み育ててくれた、この世での最高の恩人だから恩田というのです。仏陀・釈尊はいうまでもなく、阿羅漢と呼ばれる聖者や、仏弟子たちの集い(和合僧)は、私たちに真実の安らぎを与えようと教育してくださる方々ですから、福田(まことの幸せをもたらしてくださる方々)と呼んでいます。このような五逆罪を犯す者は、自分はそれで幸せになれると思って行ったのでしょうが、罪を犯したときから、現世から来世にかけて、一瞬の間断(絶え間)もなく重い責め苦を受け続ける無間地獄に堕ちますから、「五無間業」(無間地獄に堕ちる五種の悪行)ともいわれています。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (11)[「乃至十念」の称名]

梯 實圓 / 親鸞聖人の教え・問答集 (10)[第十八願の信心]の続きです。

十五、「乃至十念」の称名

「すなわち十念に至まで(乃至十念)せん」とはどういうことを表わしているのですか。

本願を信じて、浄土を目指して生きる人の最も正しい生き方は称名念仏することであると信心の行者の行業(おこない)を選び定められた言葉です。



「すなわち十念に至るまで」という言葉が、一生涯にわたる称名を指しているとは、どうしていえるのですか。

もともと「乃至十念」の「乃至」とは、一乃至十とも、千乃至十ともいえるように、数量や時間を限定しないときに用いる言葉でした。ですから一念(一声)、十念(十声)に限らず「いのち」の限り相続すべき称名行であることを表わされていたのです。
 また「念」には、さまざまな解釈がありますが、善導大師は称念の意味とされました。すなわち本願の「乃至十念」を「上は一形を尽し、下は十声に至るまで(一生涯にわたる称名から、わずか十声の称名に至るまで)」、一声一声がことごとく正定業(正しく往生が決定する徳をもった行)であるという道理を表わしていると見られたのでした。それは『観経』の下品下生に、「十念を具足して南無阿弥陀仏と称す」といわれた教説と合わされたところから出てくる十念釈でした。
 詳しい説明は今は省略しますが、要するに善導大師は、本願の十念とは、南無阿弥陀仏と十声称える称名念仏のことであると確定されたのでした。法然聖人はそれを伝承して、本願の念仏は称名念仏であるといい、専修念仏説を確立されたのです。



十念が、南無阿弥陀仏と十遍となえることであるということはわかりましたが、それに「乃至」という数量を限定しない言葉を付けて誓われていることには、どういう意味があるのですか。

それには実は深い意味があります。まずその一つは、念仏する人の「いのち」の長短は、誰もどうすることもできないからです。一声称えただけで死ぬ人もあれば、何十年も称え続けることのできる長命のひともあります。しかし一声で終わった人生も見事な念仏の人生であり、決定往生の行者だったのです。一声が少なすぎることもなく、百千万遍称えたからといって称えすぎるわけではないというのは、称えた私の力が問題となるような自力の行ではなくて本願他力の念仏だからです。
 二つには、そのようなことが成立するのは、本願の念仏は、一声一声、如来から賜っている行であって、一声、一声が如来そのものであるような無上の功徳をもっている行だからです。如来は一声、一声の念仏となって私の上に現われ、「必ず往生させる」と大悲をこめて喚び覚まし続けておられるのです。
 ですから念仏していることは、如来の本願招喚の勅命を聞いているほかにないのです。それを本願力回向の念仏と呼んでいます。すなわち称えて功徳を積んでいくというような自力の行ではなく、一声一声が無量の徳をもった、絶対の如来行であり、「必ず救う」という如来の仰せが響いている念仏ですから、数量を超えた念仏であることを表わすために「乃至」という言葉を付けて誓われたわけです。
 このように念仏とは、本願の名号(如来の勅命)を一声、一声、如来より賜っているのですから、その如来の仰せを、疑いなく聞き受けている念仏者の想いをいえば、「阿弥陀さま、お救いくださってありがとうございます」とご恩をよろこぶ意味があることがわかりましょう。それを仏恩報謝の念仏といい、「信心正因、称名報恩」の宗義として伝承されてきたのでした。



「もし生まれずは正覚を取らじ(若不生者不取正覚)」とは、どういううわれを表わしているのですか。

本願を信じて、往生できるとおもって、念仏している者が、もし往生できないようなことがあれば、正覚者(阿弥陀仏)にならない、絶対的な救いの確証を与える力強いお言葉です。それは衆生の往生と、仏の正覚とが一体不二に誓われているというので、往生正覚一体の誓願といい慣わしています。これは阿弥陀仏の本願が、衆生と仏、自己と他者の分け隔てを超えた生仏一如、自他不二の真如の顕われであることを如実に表わしていることばであります。

(「【二】阿弥陀仏の本願」より)



(つづく)




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